NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/25


滝口寺 Takiguchi-dera 

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 京都市嵯峨小倉山の麓にある滝口寺(たきぐちでら)は浄土宗の開祖法然(ほうねん)の弟子、念仏房良鎮(ねんぶつぼうりょうちん)によって創建された。正式名称は往生院三宝寺という。
 平家物語「維盛高野」の巻で語られている、平重盛の重臣で後に滝口入道と呼ばれた、斉藤滝口時頼と侍女横笛の悲恋が伝わる寺として知られている。入道は横笛との恋を父に厳しく叱責され、この寺で修行を始めた。横笛は出家した入道に会いに尋ねるが追い返され、傍にあった石に指を切った血で和歌をしたためたという。身分の違いから生まれた、悲恋の物語が伝わる滝口寺の名は物語に由来する。
 市内の社寺の多くは応仁の乱などの戦火を受け焼失したが、三宝寺は免れている。その後一度は明治維新で廃寺となったが、隣接する祇王寺の再建に続いて再建された。
 平家物語ゆかりの寺は、竹林に囲まれた小さな寺だが、奥嵯峨の情緒あふれる寺である。
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2008/7/23


金戒光明寺 Konkai-koumyou-ji 

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 黒谷(くろたに)さんの名で親しまれている、京都左京区黒谷にある金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、浄土宗の開祖法然が比叡山の黒谷を下り、師・叡空(えいくう)より譲り受け、草庵を結んだ地である。承安五(1175)年、法然四三歳のころである。
 念仏によって人々が等しく救われるという浄土宗を開いた法然は、この地に念仏道場を開いて念仏の輪を広めた。これが浄土宗の寺院のはじまりである。
 法然の死後、法蓮房信空(ほうれんぼうしんくう)と弟子達に引き継がれ、伽藍を整えられながら大寺院となった。
 建物は応仁の乱の戦火などで焼失したため、創建当時のものは残されていない。一番古いものは阿弥陀堂で、慶長一〇(1605)年に豊臣秀頼によって再建したものと伝えられている。
 幕末には京都守護職を勤めた会津藩が、ここに新撰組を預かったことでも知られている。
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2008/7/17


一遍 Ippen 

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 一遍(いっぺん)は、鎌倉時代中期の僧。時宗の開祖。
 延応元(1239)年、伊予国(現・愛媛県)に誕生。10才で出家。法然の孫弟子にあたる聖達に師事。還俗し武士となり、再度出家し、専修念仏の生活へ。3年後、「十一不二」(全ての人が必ず極楽往生できるの意)を感得。
 その後、家族を連れて遊行の旅へ出る。念仏札や踊り念仏など、独特な布教活動が流行り、一躍カリスマの人となる。日本浄土教の系譜において、一際異質な存在と呼ばれる所以である。
 「信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できる」という絶対他力が時宗の教理である。大勢の念仏行者を率いた遊行は困難を極め、徐々に縮小し、他宗派に浸食された。しかし、一遍の高潔な人格と庶民教化への姿勢は、時代を超えて評価されている。1940年に国家より証誠大師号を贈られた。
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2007/11/1


応声教院 山門 Ousyou-kyouin sanmon Sanmon Gate at Oshokyoin Temple

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 応声教院(おうしょうきょういん)は、静岡県菊川市中内田にある浄土宗の寺である。本尊は、準国宝の阿弥陀如来像とされる。
 斉衡二(855)年、茲覚大師により、文徳天皇勅願所の天台宗天岳院として創建された。
 後に、浄土宗を改宗した法然上人が、桜ケ池の竜神になったといわれる恩師皇円阿闍利を偲んで阿弥陀如来像を安置し、天台宗を浄土宗に改宗し、天岳院を応声教院に改名したと伝えられる。
 また、京都知恩院末、遠江十二支辰巳霊場としても知られ、阿闍利伝説の縁起書や歯吹阿弥陀如来座像などを所有している。
 石坂を登ると徳川2代将軍秀忠が建立した山門があり、のんべえ地蔵をはじめとした様々な地蔵や、遠州七不思議の一つ、片葉のアシや三度栗が植えられている。
 応声教院は、様々な伝説に彩られた古刹である。
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2007/10/11


親鸞 Shinran Shinran

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 親鸞(しんらん)は、鎌倉時代初期の僧。浄土真宗の開祖。
 承安三(1173)年、京都・日野に誕生。九歳から二九歳まで、比叡山にて堂僧として修行を積む。その後、浄土宗開祖・法然の門弟となり、「他力念仏」の道を極めた。
 専修念仏の弾圧により、法然・親鸞ら八名が流罪となる。法然と生き別れした親鸞は、越後で俗名を名乗って暮らした。
 赦免の後、関東の常陸(現・茨城県)に移り、法然の教えを土台に、約二〇年間に及ぶ伝道布教を行った。親鸞は権力を持たずに、非僧非俗の立場を貫いた。
 帰郷し、主著『教行信証』(顕浄土真実教行証文類)を初め、多くの書物を仕上げた。浄土真宗の核が完成し、様々な継承・発展を遂げた。口承の書として、『歎異抄』が有名である。
 弘長ニ(1262)年、九〇歳で往生。没後に皇室から見真大師の諡号を贈られる。
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2007/4/25


知恩院 Chionin 

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 「知恩院」は、京都府京都市東山区にある寺。
 浄土宗の総本山であり、開祖は法然上人である。1234年、法然上人の没後、弟子であった源智上人が法然上人を祖師とした「知恩院大谷寺」を建てた。
 境内には日本三大門のひとつである、「三門」と呼ばれる五間三戸の二重門があり、国宝に指定されている。また「御影堂」と呼ばれる立派な本堂がある。こちらは1639年、徳川家光によって建立されたもので、同じく国宝に指定されている。
 宮崎友禅作の「友禅苑」とよばれる庭園は、年に数回ライトアップされ、たくさんの観光客で賑わう。
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2007/2/2


比叡の樹林 Hiei-no-jurin Forest on Mt. Hiei

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 比叡の樹林は、滋賀県大津市坂本本町にある比叡山延暦寺の境内の樹林の事である。
 延暦寺は、比叡山全域を境内とする寺院で、最澄により開かれた天台宗の総本山。浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮等が若い日に修行している事から日本仏教の母山とも称される。
 延暦寺の境内には、古くから杉やモミなどの木が切られずに生い茂っている。
 雨に煙る風景は特に美しく、琵琶湖八景のひとつとして「煙雨・比叡の樹林」が選ばれている。
 延暦寺など諸堂が建ちならび、それを取り囲む樹林が煙雨に濡れ緑をしたたらせている様子は、幽幻な雰囲気を漂わせており、大変幻想的である。
 比叡の樹林は、昔のままの景観を今に留める景勝地である。
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2007/1/15


法然院 Hounen-in Honen-in Temple

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 京都市左京区にある寺。江戸時代初期の1680年、知恩院の萬無上人が法然上人の遺徳をしのんで建立することを発願、弟子の忍澂(にんちょう)和尚によって、現在の伽藍の基礎が築かれたとされる。
 深い緑の中にある山門の前に立つ。一言でいうなら「質素」である。
 しかし一歩中へ踏み込めば、表とは違い風情、情緒を感じる。山門をくぐると、「白砂壇」という長方形の砂盛りが左右に現れ、その真ん中に細い通り道がある。「砂壇」は「水」を表すもので、この間を通って心身を清め、院内に入ることを意味する。
 本堂北側には「椿の庭」があり、三銘椿が植えられている。「椿の寺」としても知られており、4月中旬を過ぎた落花時期には、たちまち院内は美しい椿の絨毯が出来上がる。
 秋には、紅葉がバランスよく描かれ、波紋が描かれた石庭の砂の上に散った紅い落ち葉は、ひときわ際立ちを見せる。
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