NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/2/29


お田植踊り Otaue-odori Otaue Dance Festival

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 鹿児島県南さつま市金峰町のお田植踊り(おたうえおどり)は、毎年四月二九日に尾下南方神社(おくだりみなみかたじんじゃ)で行われる、五穀豊穣を祈願する郷土芸能の祭りで、約四〇〇年にもなる長い歴史がある。
 この金峰町の七、八地区の集落の、総勢一五〇人程の男子が踊り子となり参加する。衣装や鉢巻き、踊り方は集落によって少しずつ異なっている。
 尾下南方神社から出発し、鎌踊、薙刀踊、棒踊、金山踊等の踊り行列を作り町内を練り歩く。口伝えである古老の唄と、真っ赤な纏(まとい)の地突き音に合わせて力強く舞い、観客たちは、夕方近くまで行われるこの風流な踊りに歓声をあげる。昔は夜を徹して踊られていたという。
 お田植踊りは、現在でもしっかりと伝統を受け継ぎ、人々の手で守られている踊りである。
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2008/2/15


初代 林家木久扇・二代目 林家木久蔵 Shodai HayashiyaKikuou Nidaime HayashiyaKikuzou Hayashiya Kikuou I Hayashiya Kikuzou II , Ragkugo Storytellers

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 林家木久扇(はやしやきくおう)1937年東京生まれ。61年、三代目桂三木助逝去後、八代目林家正蔵門下へと移り、林家木久蔵となる。72年に真打ち昇進。65年に『笑点』のレギュラーとなる。全国ラーメン党会長、落語協会理事などを務めている。07年、木久蔵の名を長男に譲り「木久扇」を名乗る。
 林家木久蔵(はやしやきくぞう)1975年東京生まれ。玉川大学文芸部芸術学科卒業。父である林家木久蔵の門下となり、96年に前座入り、林家きくおとなる。その後、二ツ目を経て、07年に二代目林家木久蔵として真打ちに昇進。
 2007年、東京・上野の鈴本演芸場を皮切りに、落語界史上初のダブル襲名披露興行をスタートした林家木久扇、木久蔵親子。先代が生きている間に名前を継ぐという今までにない試みとなった。
 「型にはめて守るのでなく、攻めることが、落語のようなやわらかい芸でも大事なことだ」と両氏は語る。その言葉の中には日本文化の伝統を維持し、発展させていくためのヒントが隠されている。
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2007/12/11


秋川歌舞伎 Akigawa-kabuki 

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 秋川歌舞伎(あきがわかぶき)は二宮歌舞伎(にのみやかぶき)と呼ばれていた農村歌舞伎が、時代の流れと共に改称されたものである。
 二宮歌舞伎は、二宮神社にて神楽と説教節と車人形を伝承していた古谷家が明治に入って始めたとされる。その後、古谷家と栗原家のニ座に別れたという。
 新派栗原家、市川増三郎一座が、学校五日制が導入された後の郊外活動の一環として、地元の子ども達に伝統芸能を伝承するために、秋川歌舞伎「あきるの座」を発足したとされる。歌舞伎の指導には、故・市川増三郎氏が当たったという。
 現在ではニ〇〇人近い保存会員と座員を持つ団体に成長した一座は、毎年数回の公演を行い、次世代へと引き継がれているという。
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2007/11/5


肥土山農村歌舞伎 Hitoyama-nouson-kabuki Farmers’ Kabuki in Hitoyama

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 肥土山農村歌舞伎(ひとやまのうそんかぶき)は約三〇〇年ほど前から続く、小豆島(しょうどしま)の農村歌舞伎である。
 昔、小豆島の肥土山村の農民は水不足による干害に苦しめられていた。当時の肥土山村庄屋・太田伊左右衛門典徳(おおたいざうえもんてんとく)は、三年の歳月と私財を投げ打ち灌漑用の池を構築、肥土山村に水路を築いた。初めて肥土山離宮八幡神社の側の溝に水が流れてきた時、人々は歓喜し、喜びの祝典として仮小屋を建て、芝居一座を呼び芝居を上演した。これが肥土山農村歌舞伎の始まりである。
 当時、小豆島は関西方面からの往来が頻繁に行われていたことから、上方芸能もいち早く伝わり、芝居は大切な娯楽となった。そのため小豆島の農村歌舞伎は、幕末・明治・大正・昭和にかけて隆盛を博してきた。
 現在でも、肥土山農村歌舞伎と池田町の中山農村歌舞伎の二ケ所で上演され続けている。
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2007/10/15


旧金毘羅大芝居(金丸座) Kyu-konpiraooshibai(kanamaru-za) The Old Konpira Oshibai Kabuki Theater (Kanamaruza)

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 金刀比羅宮への参道にある大門まで365段の石段が待ち構えている。その石段の上り口の南に歌舞伎専用劇場である金毘羅大芝居(こんぴらおおしばい)、通称、金丸座(かなまるざ)がある。現存するものとしては日本最古の劇場である。
 金丸座の創建は天保年間(1830~1843)である。当時は娯楽と呼ばれるものが少なく、金毘羅参りに訪れた人々の多くが金丸座に押し寄せたという。芝居小屋としての大きさも江戸、大阪、京都の大都市にある小屋に匹敵するものであり、東西の名優たちがこぞって金丸座に出演していたことからも、この地がどれだけ賑わっていたかが推測できる。
 昭和四五(1970)年国の重要文化財の指定を受け、昭和五一(1976)年に国の多額な補助金を得て復元再興がなされ、現在地に移転、天保時代の姿そのままの姿で金毘羅歌舞伎が上演されている。上演が無い日は内部を見学できる。
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2007/8/22


鬼北文楽 Kihoku-bunraku Kihoku Bunraku

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 太夫の語りと三味線の音をバックに人形遣いが操る人形からは、えもいわれぬ色気が漂う。その動きは見るほどに美しく、観客を魅了する。文楽は三位一体の日本の伝統演芸。南与地方には鬼北文楽(きほくぶんらく)が継承されている。
 江戸初期の三名座のひとつとして四百年の歴史を誇っていたのが、淡路の人形浄瑠璃・上村平太夫一座。彼らが使用していた人形の頭や衣装道具一式は、明治時代にこの地に伝えられ、大切に受け継がれてきた。特に人形の頭39点は、徳島の名工と呼ばれた天狗久(てんぐひさ)らの作で、芸術性が高い貴重な作品として、衣装道具一式とともに昭和三四(1959)年、愛媛県の有形民俗文化財に指定された。また、人形遣いは鬼北町の無形文化財に指定されている。
 現在は伝承保存、後継者の育成を目的に鬼北文楽保存会、鬼北文楽後援会が組織され、敬老会や小学校での公演のほか、数年に一度の割合で近隣文楽グループとの合同公演も行っている。
 
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2007/8/1


上町法印神楽 Kanmachi-houin-kagura Kanmachi Houin Kagura

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 上町法印神楽(かみまちほういんかぐら)は、宮城県登米市豊里町の稲荷神社例祭「まめからさん祭り」にて、毎年10月第2日曜日に行われている神楽である。県の民俗文化財民俗芸能に指定されている。
 江戸時代に、登米郡内の修験者である法印が神楽組を組織し、開墾完成と五穀豊穣を祈って祭礼等で舞ったのが始まりとされる。
 明治中期以降は神社の氏子等が引き継ぎ、伝承された。
 まめから祭りでは、舞台上での身体潔めの後、岩戸開き・道祖・魔王・産屋などの上町法印神楽が8時間にわたって奉納され、その後湯立て神事が厳かに行われる。
 その伝統的で見事な神楽に、観客からは歓声と大きな拍手が巻き起こる。
 上町法印神楽は、地元ではまめから明神と言われ、親しまれている稲荷神社の神事である。
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2007/7/5


花祭 Hana-matsuri 

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 愛知県北設楽郡の奥三河各村々に伝わる、郷土の祭り・芸能。重要無形民俗文化財に指定されている。
 歴史ははっきりとしていないが、1593年には行なわれていたと歴史書には残されている。
 奥三河の一帯は、愛知、長野、静岡の三県が接する山岳地帯である。
 「神楽芸能」に関係している祭りといわれる。祭りには数箇所ごとの形式があり、大きな鬼の面を被り、練り歩くものから、子供たちが愛らしく舞う「花の舞」と呼ばれるものまで、多種多様で夜を徹して行なわれる。
 まつりの場所は「舞処」(まいど)と呼ばれ、中央に湯の入った釜が据えられる。祭りの終盤、この釜の湯が撒き散らされる。この湯にかかると1年間「無病息災」で過ごせるといわれる。
 毎年行なわれ、11月から1月の間、各村々で開催される。
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