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2007/9/28


東山和紙 Touzan-washi Tozan Washi Paper

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 東山和紙(とうざんわし)は、岩手県一関市東山(ひがしやま)町に伝わる伝統工芸品である。
 起源については諸説があるが、平安末期の文治五(1189)年、鎌倉勢に滅ぼされた奥州平泉藤原氏の落人が、東山町一帯に土着して農耕の傍ら、生活用品として作り始めたといわれている。
 一関市には紙生里(かみあがり)という地区があり、地名から東山和紙発祥地と考えられている。
 地元で栽培したコウゾやミツマタを原料とし、独特な技法を忠実に受け継ぎ、紙質の良い素朴な和紙を漉いており、障子紙や書道用紙だけでなく、名刺や賞状の用紙としても利用されている。
 特色は、コウゾ色をした自然の色と繊細優美、素朴で丈夫な紙質とされる。
 東山和紙は、平泉・藤原文化遺産の一つとして長い間受け継がれてきた、伝統の和紙である。
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2007/9/13


荒沢神社 Arasawa-jinja 

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 荒沢神社(あらさわじんじゃ)は、滝不動との俗称も持つ、宮城県南三陸にある神社だ。
 創祀の年代は定かではないが、貞観年間(859~877)、大和国龍田神社から分霊といわれ、境内にある滝不動尊には鎌倉初期に文覚が御持仏を祀ったとも伝えられるなど、その社歴は相当古いものである。
 また、安永三(1774)年の「本吉郡南方荒砥浜風土記御用書出」には不動堂との記載があり、このころは村の総鎮守として近隣の人々から親しまれていた。
 同社には紺紙金泥大般若経(こんしきんでいだいはんにゃきょう)の一部が社宝となっている。これは平泉中尊寺経堂に残る藤原基衡(もとひら)時代の古経、「国宝紺紙金泥経」の一部で、経文の扉に金泥で得道剃髪(とくどうていはつ)の図が描かれている。
 境内には樹齢七百年もの巨木の杉が本殿の傍らに立っており、太郎坊という名で親しまれている。
 静かな境内の中に聳える巨木の下で、この木が歩んだ歴史に思いを馳せてみるのも良いかも知れない。
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2007/9/7


田束山 Tatsugane-san 

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 宮城県本吉郡南三陸町に位置する田束山(たつがねさん)は、かっては霊峰田束山として奥州平泉で栄華を極めた藤原一族が崇拝していた山である。
 そのため、山頂からは平安時代末期の藤原氏ゆかりの経塚群などが多く出土し、平泉文化を研究するうえでも貴重な場所である。
 山腹には三十三観音や不動明王が並ぶ石像公園や、しあわせの森、ふれあいの森公園などが設けられ、市民の憩いの場ともなっている。
 特に、五月のつつじ、六月のアヤメと初夏の田束山には見所が多く、たくさんの人々で賑わいをみせている。また、山頂から見るリアス式海岸も美しい。
 五月には僧侶と山伏による盛大な護摩祈祷も行われる。
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2007/9/6


熊野神社(旧新宮社) Kumano-jinja(kyuu-shinguu-sha) Kumano Shrine (Old Shungusha Shrine)in Natori

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 熊野神社(くまのじんじゃ)は、宮城県名取市高舘熊野堂にある神社である。祭神は、速玉男大神、伊邪那伎大神、事解男大神。
 保安四(1123)年、熊野から勧請したと伝えられる新宮・本宮・那智社のうちの一つ・新宮社であり、この旧名から、旧新宮社(きゅうしんぐうしゃ)とも呼ばれている。
 一帯は、中世には東北地方の熊野信仰の中心的存在とされた地である。源頼朝が平泉を滅ばした時、敗れた奥州藤原氏側について捕われた、名取熊野三社の別当寺的存在にあたるとされる。
 本殿には、貞亨年間(1684~1687)に書かれたと見られる「古絵図」があり、県指定文化財になっている。
 春には無形民俗文化財の熊野堂神楽と熊野堂舞楽が、秋には神楽が行われる。
 熊野神社は、池に浮かぶ神楽殿での舞も麗しい古社である。
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瑞巌寺 庫裏、廊下(国宝) Zuigan-ji Kuri,Roka Kuri and the Corridor at Zuiganji Temple (National Treasure)

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 瑞巌寺(ずいがんじ)は、宮城県宮城郡松島町松島にある臨済宗妙心寺派の寺である。本尊は、聖観音菩薩。
 天長五(828)年、慈覚大師円仁が開き、淳和天皇の勅願寺として平泉藤原氏の庇護を受けた延福寺が前身と伝えられる。正元元(1259)年、臨済宗に改宗し、繁栄した後、戦国時代に衰退した。 慶長一四(1609)年、伊達政宗により復興され、寺名を瑞厳円福禅寺と改めた。
 庫裏と廊下(くりとろうか)は慶長年間(1596~1614)の建立と考えられ、廊下は庫裏と本堂をつなぎ、縁に勾欄があり、繰形をつけてある。
 庫裏は切妻造、本瓦葺の巨大な屋根を架しており、妻飾り及び廊下の構成美が特に優れているとされ、国宝に指定されている。
 瑞巌寺の庫裏、廊下は、秀逸な意匠をこらした貴重な史跡である。
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2007/8/17


陸奥上街道 Mutsukami-kaidou The Mutsukami-kaido Road

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 奥州街道の一関から栗駒、一迫町真坂を通って岩出山を結び、出羽街道に至る道で、国の指定記念物史跡に指定されている。
 元禄二年(1686年)松尾芭蕉が奥州行脚の折、平泉からの帰途この街道を通ったことが知られ、「おくのほそ道」の舞台となった街道として著名である。
 一部石畳になるなどしているが、自然のまま木々に囲まれひっそりとした小道はまさに「おくの細道」という名前がぴったり。そこはかとなく懐かしささえ感じるような道である。
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2007/8/10


義経・弁慶伝説 Yoshitsune-Benkei-densetsu Legends of Yoshitsune and Benkei

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 最上地域には、義経・弁慶に関する伝説が多く残っている。室町時代に書かれたとされる「義経記」によると、兄源頼朝の追手を逃れ岩手県平泉に向かう途中、文治3(1187)年に最上地域を通ったとされている。

 なかでも瀬見温泉周辺には、義経の子「亀若丸」の誕生に加護があったという子安観音などの義経主従にまつわる数々の伝説、旧跡が残されている。
 「瀬見」という名の由来には、弁慶が使っていたなぎなたの名が「せみ丸」であったから、亀若丸が落人の身であることを知って一度も泣かなかったので「泣かぬ蝉」から、キズを負っている蝉が、温泉の上の木に止まって湯煙で湯治をしていたから、など諸説ある。
 最上町瀬見の義経・弁慶にまつわる観光地には、産湯を探して谷川を下った弁慶が、なぎなたで岩を砕いたところ、温泉がわきでたとされる「薬研の湯」や、亀若丸の名をつける時、弁慶がすずりとして墨をすったといわれる「弁慶の硯石」などがある。
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2007/6/28


小迫祭 Obasama-matsuri 

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 小迫(おばさま)祭は、小迫の延年(えんねん)とも呼ばれ、旧暦三月三日、現在は毎年四月の第一日曜日に行なわれている。
 延年とは僧侶や稚児たちによって催された芸能の総称で、平安から室町時代にかけて盛んに行われていたもの。
 祭りの当日、白山神社に付属する別当寺・楽峯山勝大寺に一泊していた神輿が衆徒、僧侶、宮司などに担がれて神社へ向かう。
 その後白山神社前の「野舞台」では、古式ゆかしい献膳・獅子舞・御法楽・入振舞・飛作舞・田楽舞・馬乗渡し(ばじょうわたし)の神事が奉納される。
 坂上田村麻呂が建立したとされている白山神社に伝わる、頼朝の流鏑馬「那須与一・扇の的射」の奉納神事の謂れと、勝大寺に伝わる「延年の舞」とが習合して、小迫祭りとなった言われている。
 小迫の延年は、白山神社と深いかかわりを持つ平泉の毛越寺の延年とともに、国の重要無形民俗文化財に指定されている。
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