NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/3/5


弥彦神社 yahiko-jinjya yahiko Shrine

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 越後平野の中央にそびえ立つ弥彦山の麓に、弥彦(伊夜比古)神社(やひこ(いやひこ)じんじゃ)はある。越後国の一ノ宮である。
 境内はうっそうとした樹林に覆われ、長い月日を経てきた老杉、古欅が佇んでいる。その創建年代は不詳だが、万葉集にも歌われたほどの古社。
 祭神は天香山命(あめのかごやまのみこと)。神武天皇の命を受け、越後国開拓のため地元の民に、漁労や製塩、稲作や養蚕などの農耕術を教えたという。かつては、伊夜比古さまと呼ばれ、越後の人々の心のふるさと、魂のよりどころとして、古くから栄えてきた。
 日本有数の長い日本刀である志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)や、源義家や源義経らに所以すると伝えられる武具などの文物が、社宝として宝物館に展示されている。
 現在の社殿は、火災のために焼失した後、大正五(1916)年に再建されたものである。
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2007/10/11


親鸞 Shinran Shinran

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 親鸞(しんらん)は、鎌倉時代初期の僧。浄土真宗の開祖。
 承安三(1173)年、京都・日野に誕生。九歳から二九歳まで、比叡山にて堂僧として修行を積む。その後、浄土宗開祖・法然の門弟となり、「他力念仏」の道を極めた。
 専修念仏の弾圧により、法然・親鸞ら八名が流罪となる。法然と生き別れした親鸞は、越後で俗名を名乗って暮らした。
 赦免の後、関東の常陸(現・茨城県)に移り、法然の教えを土台に、約二〇年間に及ぶ伝道布教を行った。親鸞は権力を持たずに、非僧非俗の立場を貫いた。
 帰郷し、主著『教行信証』(顕浄土真実教行証文類)を初め、多くの書物を仕上げた。浄土真宗の核が完成し、様々な継承・発展を遂げた。口承の書として、『歎異抄』が有名である。
 弘長ニ(1262)年、九〇歳で往生。没後に皇室から見真大師の諡号を贈られる。
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2007/10/9


越後与板打刃物 Echigo-yoita-uchihamono Echigo Yoita Forged Blades

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 新潟県長岡市与板地区の打刃物産業は四百年余りの伝統を誇り、その切れ味の鋭さと使いやすさには定評がある。
 戦国時代の天正六(1578)年、上杉謙信の家臣が春日山より刀剣師を招き打刃物を作らせたのが始まりで、享保年間(1716~36年)には与板の大工道具は「土肥のみ」または「兵部のみ」として知られるようになった。明治に入ると刀剣師が鉋(かんな)の製造に着手し、全国にその名をとどろかせた。そして昭和六一(1986)年、のみ・かんな・まさかり・ちょうなについて、通産大臣(現経済産業大臣)より「越後与板打刃物(えちごよいたうちはもの)」として伝統的工芸品の指定を受けるに至った。
 与板の打刃物は火づくりの鍛造技法によるもので、地鉄に鋼をのせ丹念に焼いては叩きの地道な工程を繰り返し、伝統工芸師の魂が宿った完成品へと仕上げられて行く。
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2007/10/4


良寛 Ryoukan Ryokan

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 良寛(りょうかん)は、江戸後期の曹洞宗の禅僧で、歌人、漢詩人、書家としても知られる。
 宝暦八(1758)年、越後国出雲崎(現・新潟県)に誕生。土地の名主で、俳人でもある父から、影響を受けて育った。
 大森子陽の塾で学び、名主見習役を経て、円通寺の国仙和尚のもとで出家。その頃、和歌に親しむようになり、歌人との交流や創作を重ねてゆく。
 三三歳の頃、国仙和尚より印可の偈を与えられる。以後、民衆の教化に努めたが、難解な説法を避け、分かり易い言葉を用いた。特定の寺を持たず、自らの質素な生活を開示することで、民衆の共感や信頼を得ていた。
 良寛の住む五合庵には、実に多くの芸術家や学者が訪れた。般若湯(酒)を好み、自らを慕う人々と頻繁に杯を交わしたと伝わる。
 天保二(1831)年、良寛死去。歌集『蓮の露』を弟子の貞心尼が編んだ。
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2007/8/30


茨城 西念寺 Ibaraki Sainen-ji Ibaraki Sainenji Temple

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 浄土真宗別格本山 稲田山西念寺。
 鎌倉時代の初め、越後への流罪が解かれた親鸞は、招かれて茨城県笠間市稲田のこの地に草庵を結び、布教をしていた。
 建保二(1214)年から寛喜四(1232)年のことである。
 この間、根本教典の「教行信証」を記し、その後京都に戻った。
 境内にはお葉付き銀杏をつけるイチョウの珍種がある。2000年11月15日に県の文化財に指定された。
 銀杏は化石の植物といわれ、その起源は百万年以前に遡る。この木は老木ではないが、それが親鸞聖人が蒔いたものと思って見れば、参拝の念佛者にとって特になつかしいものである。
 参拝者は一粒の実を参拝の記念に蒔いて、深き佛縁を喜んでいる。
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2007/8/24


旧関川家別荘 Kyuu-sekikawa-ke-bessou 

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 旧関川家別荘(きゅうせきがわけべっそう)は、一七世紀の終わりから明治三〇年代まで、松前藩一の豪商として江差で回船問屋を営んでいた関川家の別荘を当時の姿に修復した建物。北海道豊川町に所在する。
 関川家初代・与左衛門は越後の人で天和年間(1681~1684)に松前に移り、その後江差に定住、酒屋を営んだ。二代目からは事業を拡大、回船問屋も営み、他に米問屋・海産・金融・薬・味噌醸造・紙漉から農地開拓まで幅広く手がけて、財を成したという。
 面積一万一〇〇〇〇平方メートルもある日本庭園からは、当時の繁栄振りがうかがえる。
当時の姿に復元された建物は一般公開され、江差の最盛期の頃の様子を伝える古文書や調度品などの貴重な品々が展示・保存されている。
 旧関川家別荘は、豊川町の有形文化財に指定されている。
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2007/4/2


本興寺 本堂 Honkouji-hondou 

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 本興寺は、静岡県湖西市鷲津にある法華宗の寺である。本尊は、釈迦牟尼仏とされる。
 永徳3(1383)年までは真言宗の寺であったが、越後本成寺の門祖日陣聖人の教化により、法華宗に改宗した。
 当時の住職は日陣聖人の弟子となり、名を日乗と改め、本興寺は日乗聖人の開基となっている。
 本堂は建立年代不詳であるが、天文21(1552)年、修復が行なわれ、和、唐、天竺の三様式が巧みに折衷された建築であり、国の重要文化財に指定されている。
 茅葺屋根は重厚な安定感をかもしだし、向拝には輪宝の蟇股が施され、建物には土壁や釘が使われず、床下の亀腹はシックイ造となっている。
 本興寺本堂は、法華宗別院と称して貴重な文化財を多く所蔵している、歴史的な古刹である。
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2007/3/19


平井城跡 Hirai-jyou-ato Hirai Castle Ruins

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 平井城は、現・群馬県藤岡市を流れる鮎川左岸の断崖上に所在した城である。
 室町時代の永享十(1438)年頃に、関東管領、上杉憲実により築城されたといわれる。後に小田原の北条氏康に攻められ落城、その後越後の長尾景虎(上杉謙信)が奪還したが、景虎は関東における拠点を前橋城に移したため、平井城は廃城にした。
 平成七年から平井城跡の発掘調査が行われ、15世紀中頃から16世紀後半の遺物が出土した。土塁や横堀、堅堀、橋脚台跡、掘立柱建物跡、竪穴状遺構、厠跡などが発掘され、歴史的価値のある史跡として
 県指定の史跡にもなっている。
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