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2008/6/30


二俣城 Futamata-jou 

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 二俣城(ふたまたじょう)は、静岡県天竜市街地の北側、標高約一〇〇メートルのところにあり、天龍川と二俣川に囲まれ切り立ったところに立っている。徳川軍と武田軍による攻防の舞台となった城として知られている。
 文亀三(1503)年、二俣昌長(ふたまたまさなが)が築城したとされる。
 天正七(1579)年九月一五日、徳川家康の嫡男である松平三郎信康が城中で自刃したという悲話が残されている。この際、介錯に使われた刀が千子村正(せんごむらまさ)であった。村正とは、室町時代の刀工で、伊勢国桑名の住人。「妖刀村正」と呼ばれ、数々の伝説を残した名匠で、信康の自刃のほか、徳川家康の祖父・清康が殺害され、さらに関が原の戦いで家康自身も手に傷を負ったのが全て村正という。
 現在残っているものは、高さ約四、五メートルの天守台と、野面積み(のずらづみ)の石垣、本丸、二の丸、南・北曲輪、土塁などが残されている。
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小牧山城 Komakiyama-jou 

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 小牧山城(こまきやまじょう)は、愛知県小牧市の市街地西に位置する、標高約八六メートルの小牧山にある。
 桶狭間の合戦ののち、尾張平野の中に孤立した丘陵と、その麓を利用し、永禄六(1563)年に織田信長が築いた平山城である。
 信長の死後、天正一二(1584)年「小牧・長久手の戦い」において、豊臣秀吉と戦った織田信雄(のぶかつ)・徳川家康連合軍が大規模な改修を施し陣城とした。
 その後、小牧山は尾張藩によって入山が禁じられた。明治以後もこの規則は守られ、明治二二(1889)年に尾張徳川家に払い下げられた。
 昭和五(1930)年に尾張徳川家の徳川義親(とくがわよしちか)から小牧市に寄贈されて以後、自然公園として整備された。
 現在は城址公園となり、削平地や復元された空堀、土塁、旧虎口跡などがある。また山頂に展望台がわりの模擬天守が建っており、内部は歴史館となっている。
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伊勢亀山城(胡蝶城) Ise-kameyama-jou(Kochou-jou) 

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 伊勢亀山城(いせかめやまじょう)は、三重県亀山市本丸町にあった城である。
 2000m余りの白亜の土塀により、蝶の群れが舞うような姿に見えた事から別名・胡蝶城(こちょうじょう)とも呼ばれている。
 文永二(1265)年、関実忠(せきさねただ)によって若山に築城され、その後現在の位置に遷された。
 元亀四(1573)年、関盛信(せきもりのぶ)が織田信長によって追放されるまで関氏代々の居城となっていた。
 交通の要所にあったため、城主はその後本田氏、石川氏、板倉氏、松平氏、板倉氏とめまぐるしく交代し、延享元(1744)年、石川氏が入城、以降、明治維新まで城主を務めた。
 建物のほとんどは破壊され、現在は僅かに多門櫓と外堀、土塁の跡を見る事が出来る。
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平林城 Hirabayashi-jou 

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 平林城(ひらばやしじょう)は新潟県岩船郡神林村平林に位置する中世時代の居城跡である。別名加護山城(かごやまじょう)とも呼ばれている。
 築城年は不明であるが、一四世紀頃の南北朝時代に存在した。最初は南朝派の豪族平林氏の居城であったが、のちに北朝派の色部氏が制圧した。
 慶長三(1598)年に上杉景勝の会津移封により廃城となり、周囲の人口も激減したため風化していった。
 数多くの遺構が残っており曲輪、堀切、土塁、空堀、虎口、馬洗い、首切り清水などが発掘されている。
 中世史を理解する上に重要な史跡として、昭和五三(1978)年、国指定の史跡名勝記念物となった。
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2008/6/26


吉田城(今橋城) Yoshida-jou(Imabashi-jou) 

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 吉田城(よしだじょう)は、別名・今橋城(いまばしじょう)とも呼ばれ、永正二(1505)年、今川方であった牧野古白(まきのこはく)によって築城された。
 近隣の豪族との抗争を繰り返し、天文一五(1546)年になって今川義元が城代を置いた。
 戦国争乱の世の中で、東三河の要であった今橋城は、戦国武将が激しい攻防を操り返す中で、名前を今橋から吉田と改めた。
 永禄八(1565)年、徳川家康は今川氏の最大拠点であった吉田城を攻略し、酒井忠次を置いた。
 そして天正一八(1590)年、徳川家康の関東移封により、池田輝政が一五万二千石で入城、城下町の整備などをおこなったが、慶長五(1600)年の関ヶ原の戦いの後、播州姫路に所替えとなった。
 現在、吉田城跡のある豊橋公園には、本丸跡に復元された三層の隅櫓があるほか、石垣や空堀、土塁などが残されている。
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岩崎城 Iwasaki-jou 

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 岩崎城(いわさきじょう)は、小高い丘の上に築かれた城である。
 この城は室町時代末期、尾張国の東端、国境付近を守る織田信長の父である織田信秀の支城であった。岩崎は、尾張と三河を結ぶ街道の要衝地として知られ、以前から交易の場として栄えたところである。城下は「市場」の地名が今でも残っている。
 築城年代ははっきりしないが、織田信秀により築城、属将であった荒川頼宗が守備していたとされる。享禄二(1529)年尾張国に進出するため、三河国岡崎城主で徳川家康の祖父であった松平清康が岩崎城を攻め落とした。その後、天文六(1537)年、当地方の土豪であった丹羽氏四代の居城となった。
 昭和五九(1984)年から約三年かけて発掘調査が行われ、隅櫓や井戸跡などが発見された。各郭の間を堀や土塁が取り囲み、城の遺構はよく残されている。
 現在、城跡は公園として整備されており、三層の模擬天守や歴史記念館が建てられている。
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2008/6/25


小倉山城 Ogurayama-jou 

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 小倉山城(おぐらやまじょう)は、岐阜県美濃市泉町にあった城である。
 慶長一〇(1605)年、飛騨国高山藩主であった金森長近(かなもりながちか)は、養子の可重に高山城を譲り隠居し、隠居城として小倉山城を築城した。
 二年後、長近が没すると、可重は長近の実子長光に2万石を分地したが、慶長一六(1611)年、金森氏は跡継ぎが無く没したため取りつぶしとなり、小倉山城は廃城となった。
 元和元(1615)年、尾張徳川家の所領となり、廃城となっていた小倉山城に代官所が置かれ、以後明治維新まで続いた。
 現在、小倉山は小倉公園として整備されている。遺構としては石垣と土塁が現存しており、本丸に模擬櫓、山頂に三階建ての展望台と忠魂碑が建造されている。
 小倉山城は、城として使用されたのは短期間であったが、その後代官所として利用され、人々に親しまれた城である。
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2008/6/20


御着城 Gochaku-jou 

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 御着城(ごちゃくじょう)は、兵庫県姫路市役所東支所の敷地内にあり、敷地内に城址公園として石碑が建てられている。
 茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣であった小寺政隆が永承一六(1519)年に築城した。別所氏の三木城、三木氏の英賀城と共に播磨三名城といわれていた。
 以後三代六〇余年続いたが、天正七(1579)年、豊臣秀吉の三木城攻めに際し、別所長治に味方したため攻撃を受け落城した。
 現在の御着城は、本丸中央を国道二号線が貫いており、周囲も宅地化している。支所の建物は城郭風になっており、その裏には空掘跡に天川橋が架けられている。
 昭和五二(1977)年からの発掘調査で、御着城が一四世紀後半から一六世紀後半まで存続し、一六世紀半ばには大型や中型の堀や土塁が築かれ、本格的な縄張りが行われていた事が判明した。
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