NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/11/5


旧奥州街道 Kyu-oushuu-kaidou The Oshu Kaido Road

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 旧奥州街道(きゅうおうしゅうかいどう)は、江戸日本橋を起点として千住から陸奥白川を中心とした、奥州を通る脇街道もふくめた街道の総称である。
 徳川家康が天下統一を行った後、幕府は宿駅制度を設けて、江戸日本橋を起点とした五街道を整備し、道中を奉行に管理させた。
 奥州街道は、その五街道の一つで、江戸時代初期には主に東北諸藩の参勤交代の交通・連絡に用いられた。
 江戸中期には蝦夷地開発、江戸末期にはロシアからの蝦夷地防衛のために往来量が増加した。
 明治六(1873)年、陸羽街道と改称され、現在は大部分が国道4号となり、並行して東北自動車道、八戸自動車道が通っている。
 旧奥州街道は、江戸時代の人々にとり、奥州を旅する時に欠かせなかった中心街道である。
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2007/9/11


館腰神社 Tatekoshi-jinja Tatekoshi Shrine

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 弘仁二(811)年に僧・空海がこの地に弘誓寺(ぐぜいじ)を創建するため、京都の伏見稲荷を分霊して作られたのが館腰神社(たてこしじんじゃ)である。弘誓寺の隣にある小高い丘に鎮座しており、奥州街道沿い、岩沼阿武隈の「要所」という意味でこの辺りが「館の腰」と呼ばれいたことから、館腰神社の名がついたという。
 ご祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)大宮姫神(おおみやひめのかみ)猿田彦神(さるたひこかみ)で、昔からこの地方の鎮守として知られる古神である。明治二年、神仏習合禁止により弘誓寺と分離した。
 この神社の入り口には、大正一三年建立の灯籠がある。お狐さまの入った灯籠を、四人の力士が支える珍しいものである。境内の石段を上がると山門や拝殿、本殿があるが、社殿はどれも昭和になってから造営されたものである。
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2007/8/17


陸奥上街道 Mutsukami-kaidou The Mutsukami-kaido Road

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 奥州街道の一関から栗駒、一迫町真坂を通って岩出山を結び、出羽街道に至る道で、国の指定記念物史跡に指定されている。
 元禄二年(1686年)松尾芭蕉が奥州行脚の折、平泉からの帰途この街道を通ったことが知られ、「おくのほそ道」の舞台となった街道として著名である。
 一部石畳になるなどしているが、自然のまま木々に囲まれひっそりとした小道はまさに「おくの細道」という名前がぴったり。そこはかとなく懐かしささえ感じるような道である。
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2007/6/18


宿場 Shukuba Shukuba

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 宿場(しゅくば)は、江戸時代に存在した街道での駅逓(えきてい)事務を行うために設置された町場である。
 徳川家康によって関が原の戦い以降に整備され始め、東海道、中山道と整備されていき、最終的には甲州街道、奥州街道、日光街道の五街道や脇往還が設定された。
 宿場の重要な役割として、隣の宿場から運ばれてきた公用の荷や手紙等を、次の宿場まで運搬するという業務があった。そのため本陣、脇本陣、旅籠などの宿泊施設と、継ぎ送り業務を行う問屋場が中心なっていた。
 しかし、それら公用の労役・業務について、利益を上げることは困難であっため、幕府は地子免除・各種給米の支給・拝借金貸与等の特典を設け、宿場の保護育成につとめた。
 明治以降には鉄道等の交通事情の変化によって、通行する人も少なったため、徐々に衰退していくこととなる。
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2007/6/1


旧有壁宿本陣 Kyu-arikabesyuku-honjin Old Arikabe-shuku Honjin

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 五街道の一つ「奥州街道」の金成宿(かんなりしゅく)と一の関宿の中間に位置する「有壁宿」は、元和五(1619)年に創設され、以来参勤交代の際には、松前・八戸・盛岡・一関の藩主や各藩重臣が宿泊する宿であった。
 現在残る有壁宿の本陣は、代々、佐藤家が検断を勤め、同家に伝わる文書によると江戸中期の延享元(1744)年に火災にあい、現在の場所に移してその時、再建されたものである。以来今日まで災禍を免れ貴重な資料とともに当時の建物が残されている。
 御成門、車寄せ、中座敷などの遺構を保ち、「宿駅検断文書」、「本陣宿泊文書」、「佐藤家内文書」などの重要な歴史資料が残されている。敷地内には土蔵や馬屋が残っていて、往時の武家社会の面影を伝えている。
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2007/5/31


脇往還 Waki-oukan 

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 脇往還(わきおうかん)は、江戸時代の五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)以外の主要な街道を言い、脇街道、脇道とも呼ばれた。
 脇往還は、五街道ほど関所の取締りが厳しくなく、女性たちに重宝された。
 脇往還の主な街道は、次の通りである。
水戸路(江戸~水戸)
伊勢路(四日市~山田)
佐屋路(岩塚~桑名)
美濃路(名古屋~垂井)
中国路(大阪~小倉)
下仁田路(上州~信州)
館林路(川俣~青柳)
 下仁田路は、険しい地形でもなく、また武士の往来も少なかったため、善光寺参りの女性によく利用され、別名「信州姫街道」とも呼ばれた。館林路は、「日光脇往還」と呼ばれ、日光東照宮への参詣客たちがよく利用したものである。各脇往還には、道標や宿屋町の名残を残す史跡などがあり、今では歴史の面影を残す格好の散歩道としてウォーキングを楽しむ人々に人気だ。
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2007/5/7


安藤家本陣 Andoukehonjin 

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 安藤家本陣は、宮城県刈田郡七ヶ宿町にある本陣宿。羽州街道と奥州街道を結ぶ山中七ヶ宿街道の滑津(なめつ)宿にあり、江戸時代、秋田藩や庄内藩など十三大名の参勤交代の大名宿となった。
 滑津大滝へ降りる道のほど近くに建ち、旅籠や木賃宿が立ち並んだ山中七ヶ宿街道の中で唯一、当時の面影を残している建造物といわれている。
 安藤家は仙台藩の要害であった角田城の城主角田家の家臣で、文政一二(1829)年からは安藤太郎左衛門が肝煎検断(名主)を勤めた。祖先は西国に住み、関が原の戦いで破れたのち、この地に逃れたと言われる。
 独特の切妻破風造りの玄関と、重量感のある茅葺き屋根が立派な古い屋敷である。
 安藤家本陣は、七ヶ宿街道の様子を今に伝える、大変貴重な建築物である。
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