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2008/4/15


瓦 Kawara Kawara Roofing Tile

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 瓦(かわら)は、粘土を練って成形、焼成した屋根に葺く陶器製建材である。
 瓦が歴史上、初めて登場するのは約二千八百年前の中国といわれており、日本には崇峻天皇元(588)年、百済から仏教と共に伝来し、飛鳥寺造営の際、初めて使用されたとされる。
 当時は瓦葺が許された建物は寺院のみであったが、奈良時代に入るとその他の建物でも使用されるようになる。
 江戸時代には新しい瓦の構造が発明され、また、火事対策の耐火建築用品として瓦の使用が奨励されたこともあり、一般に広く普及していくこととなった。
 日本では大きく分けて釉薬を使った「釉薬瓦」と、燻して銀色の炭素膜を形成した「いぶし瓦」に二分されるが、形状については多種多様なものが存在しており、分類すると千を越える種類が存在している。
 現在では、愛知の三州瓦、兵庫の淡路瓦、島根の石州瓦が三大産地として知られており、日本家屋における屋根の代表格の座を支え続けている。
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2008/3/7


宝福寺 三重塔 Houfuku-ji Sanjuu-no-tou 

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 総社市の北西、秋葉山の山すそにたたずむ宝福寺(ほうふくじ)は、この地に生まれ後に画聖と称えられた雪舟が、少年時代に修行した寺。絵ばかり好んで経を読もうとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂の柱にしばりつけた。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床にねずみを描いたところ、僧はその見事さに感心し、雪舟が絵を描くことを許したという。山門近くには、柱に縛られた姿の雪舟のブロンズ像が置かれている。
 境内に立つ三重塔(国指定重要文化財)は、墨書銘から南北朝時代の永和二(1376)年に建てられたものであることが判明。岡山県下では二番目に古い三重塔である。高さ18・47m、本瓦葺、丹塗りで、軒の出が深く、室町時代初期の寺院建築の風格を備えている。
 塔内初層には須弥壇(しゅみだん)が設けられ、大日如来と脇侍四天王が安置され、天井には天女の絵が描かれている。
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岩船寺 三重塔 Gansen-ji Sanjuu-no-tou 

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 アジサイの名所として知られる岩船寺(がんせんじ)は、京都府の南端、奈良県境に近い当尾(とうの)の里にある。天平元(729)年、聖武天皇の勅願により行基(ぎょうき)が建立したと伝わる。
 その後、大同元(806)年に空海の甥・智泉(ちせん)が、密教儀式の道場として報恩院を建立。弘仁四(813)年には嵯峨天皇の皇后が、皇子(後の仁明天皇)誕生を感謝して堂塔伽藍を整え、岩船寺と称するようになった。
 最盛期にはかなりの規模を誇る寺院であったが、承久の変により大半が焼失。現在は本堂と三重の塔を残すのみである。
 山門のほぼ正面奥に三重塔がそびえている。塔は室町時代の嘉吉二(1442)年の建立で、高さ20・5m。本瓦葺で、国の重要文化財に指定されている。初層の内部には来迎柱が立てられ、本尊を安置する須弥壇(しゅみだん)と来迎壁が設けられている。塔の隅垂木(すみたるき)を支える木彫りの天邪鬼(あまのじゃく)がかわいらしい。
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2008/3/6


興福寺 大湯屋 Koufuku-ji Ooyuya Kofuku-ji Temple, Ooyu-ya Bathhouse

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 興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町にある法相宗大本山の寺院である、藤原氏の氏寺である。本尊は釈迦如来で、西国33箇所第9番、西国薬師霊場第4番札所とされている。
 天智天皇八(669)年、藤原鎌足夫人により現在の京都市山科区に山階寺(やましなでら)という名称で創建され、和銅三(710)年、藤原不比等によって現在地に移転、興福寺と改称された。
 大湯屋(おおゆや)は、五重塔の東方に建っている中世の風呂で、創建年代は不明であるが、現在のものは応永三三(1426)年頃の再建とされ、国の重要文化財に指定されている。
 南北四間・東西四間の本瓦葺で、西側は入母屋造、東側は切妻造となっており、中には口径136cmの大きな鉄の湯釜が2基存在し、沸かしたお湯から立ちのぼる蒸気にあたる蒸し風呂となっている。
 中世以後は、大衆蜂起の衆議所としても使われた。
 興福寺の大湯屋は、中世の浴室建築として大変貴重な建物である。
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2008/2/18


甚目寺 三重塔 Jimoku-ji Sanjuu-no-tou 

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 甚目寺(じもくじ)は町名にもなっている真言宗の古刹で、伝説によると推古五(597)年の建立といわれる。出土した瓦から、7世紀後半にはすでにこの地に伽藍が存在していたことが確認されており、三重塔や南大門、東門など多くの国の重要文化財が残る。
 江戸時代初期の寛永四(1627)年、名古屋の両替商吉田半十郎政次の寄進により建立された塔は約25m。三重塔としては日本有数の高さを誇る。本瓦葺の純和風の大型の塔で、釘は一本も使われていない。
 塔の内部には四天柱(してんばしら)や須弥壇(しゅみだん)があり、鎌倉時代の作で県の文化財に指定されている愛染明王坐像(あいぜんみょうおう)が祀られている。柄杓を奉納する風習がある。
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2008/1/8


京瓦 Kyou-gawara Kyo-Gawara

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 京瓦(きょうがわら)は、主に京都で作られ、京都の寺社、数奇屋の屋根に多く用いられた瓦である。
 美しく滑らかな肌合いと、独特の光沢が特徴とされている。
 この肌合いと光沢は、一枚一枚、ヘラで瓦の表面をならすように磨くことによって醸し出される風合いとなっている。この磨き上げられた「肌」の目の細かい順に、本ウス、ミガキ、水ナデ、並とわかれており、家の表に使う瓦は本ウス、裏には並と、場所によって使い分けたとされているが、現在では原土の関係から「ミガキ」のみが作られているという。
 また、京瓦は、他産地の瓦と寸法の比率が異なっており、厚みも薄く、他産地の瓦にはない独自の優美な姿を持っている。
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興正寺 五重塔 Koushou-ji Gojuu-no-tou 

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 興正寺(こうしょうじ)は天瑞円照(てんずいえんしょう)が高野山より訪れ草庵を結び、貞享五(1688)年、尾張二代目藩主・徳川光友より建立が許されたことに始まる。
 総門・中門・五重塔・本堂が南北に一直線に並ぶ、古きを大切にした伽藍(がらん)配置となっている。
 中でも五重塔は、この寺の象徴として広く親しまれている。浄財を資として文化五(1808)年に建立された。
 総高30メートルの高さにして流線美と平均率の妙に勝れており、本瓦葺の軒が精悍な印象である。
 東海地区雄一の木造塔であり、昭和五七年に重要文化財に指定されている。
 毎年一一月中旬~一二月上旬頃になると辺りは紅葉に染まり、沢山の観光客が訪れる。
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寛永寺 五重塔 Kanei-ji Gojuu-no-tou 

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 東京都台東区の上野公園に寛永寺の五重塔がある。
 寛永一六(1639)年の建立。上野東照宮の建物の一部であったが、明治の神仏分離によって寛永寺の所属となった。
 寛永寺の創立者は徳川家光、初代住職は天海、本尊は薬師如来である。日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇った。
 境内は現在の上野公園のほぼ全域を占め、墓地には徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍一五人のうち六人が眠る。
 しかし慶応四(1868)年の上野戦争で主要な伽藍は焼失されてしまう。
 五重塔は、旧本坊表門や清水観音堂などのいくつかの建物とともに焼失せずに残った。
 構造は三間五重塔、五重銅瓦葺からなり、全層が和風造りである。高さは地上から一番上の宝珠まで、36・36メートル。一層の中央、心柱をかこんで、東西南北に薬師、阿弥陀、弥勒、釈迦の四方四仏を安置している。
 明治四四(1911)年、国指定重要文化財となった。
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