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2008/1/8


菅田天神社 Kandaten-jinja Kandaten Shrine

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 菅田天(かんだてん)神社は山梨県甲州市に位置する神社である。
 承和九(842)年に藤原伊勢雄により創建、寛弘元(1004)年、菅原道真を相殿に祀り、以降菅田天神社と称したとされる。
 甲斐府中の鬼門を守る鎮守の地とされ、武田家重宝である源氏八領の具足の一つである国宝「小桜韋威鎧(こざくらかわおどしよろい)」所蔵の寺社として知られる。
 頑健であることから盾が不要であるとされ、別名を楯無鎧(たてなしのよろい)とも称された大鎧であり、御旗と言われる、わが国最古の日の丸旗と共に武田家当主の証として代々受け継がれた。
 祭神は本殿素盞鳴尊、菅原道真ら八柱。境内には菅公由来の座牛像や神楽殿が建ち並び、甲斐源氏の宝物を静かに守る古社である。
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2007/12/10


秩父 三峯神社 Chichibu Mitsumine-jinjya 

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 三峯という名は、神社の東方にそびえる雲取山、白岩山、妙法が岳の三つの峰が美しく連なることから呼ばれている。神社の由緒は古く、景行天皇が皇子の日本武尊を東国に遣わした時にさかのぼる。日本武尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向う途中で、雲取山、白岩山に登り、眼下に広がる山川が清く美しい様子を見て、その昔に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)が国を生み出したことをしのび、お宮を造営して二神を祀ったのがはじまりとされる。
 現在三峯神社周辺には、日帰り温泉施設「三峯神の湯」、茶亭「小教院」があり、かつて修験の山として栄え、明治の神仏分離まで観音院と呼ばれていた時代の資料等を展示している「秩父宮記念三峰山博物館」などがある。
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2007/10/12


沼田城跡 Numata-jyou-ato Numata Castle Ruins

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 群馬県沼田市に所在。戦国時代の天文元(1532)年、この地方の有力者、沼田十二代の万鬼斎顕泰(ばんきさいあきやす)が築城したと言われる。当時は倉内城と呼ばれた。
 関東へ至る要衝の地であることから、越後の上杉氏や小田原の北条氏、甲斐の武田氏などの戦国大名により目まぐるしい争奪戦が繰り広げられた。
 江戸時代に入ると真田氏の所領となり、慶長二(1597)年から数年かけて、真田信幸により五重の天守閣を建造、二の丸、三の丸などが整備され、近世城郭に改修されたという。
 関東では珍しく石垣が築かれていた沼田城。現在残っている遺構はあまりないが、わずかに残る石垣や堀が当時の面影をしのばせる。春には樹齢400年の古木「御殿桜」が咲き、沼田城の興亡の歴史を静かに語りかけてくるようだ。
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犬越路 Inukoe-ji Inukoeji Pass

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 犬越路(いぬこえじ)は、神奈川県足柄上郡山北町と相模原市の間にある標高1050mの峠である。かながわの景勝50選に選ばれている。
 西丹沢の展望が広がる犬越路は、もの静かな峠で、桧洞丸(ひのきぼらまる)と大室山(おおむろやま)に登る登山者の休憩場所でもある。この峠には、登山者の為の避難小屋がある。
 戦国時代には、甲斐の武田信玄の勢力がこの辺りまで及んでいた。武田の軍勢はたびたび小田原北条氏を攻めたが、その時、この間道を使って小田原へ向かった。険しい山道であったため、軍用犬を先頭にして兵を進めたという伝説が地名の起源とされている。
 峠からは、すばらしい富士の展望と、秋には見事な紅葉を拝むことが出来る。
 犬越路は、古くから使用されてきた景観の美しい峠である。
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2007/10/9


絹の道 Kinu-no-michi Silk Road

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 絹の道(きぬのみち)は、東京都八王子市~神奈川県横浜市を結ぶ道の事である。現在の国道16号とほぼ同様の経路を辿る。
 八王子は古くから桑都(そうと)と呼ばれ、生糸絹織物の生産が盛んだった。安政六(1859)年、横浜の開港と共に生糸の需要が高まり、八王子は信州・甲斐方面からの生糸商人たちの拠点となった。
 生糸貿易で頻繁に使われた道は鑓水(やりみず)街道または浜街道と呼ばれ、日本のシルクロードにあたるということから、のちに「絹の道」として知られるようになった。
 この生糸を運んだ交通路は、歴史的な意義が認められ、そのうちの一部が自然を残して整備されている。また、鑓水商人屋敷跡には「絹の道資料館」が開館している。
 絹の道は、幕末・明治の人々・特に鑓水商人たちの足跡を残す、貴重な史跡である。
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2007/10/4


日蓮 Nichiren Nichiren

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 日蓮(にちれん)は、鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。
 貞応元(1222)年、安房国(千葉県)に誕生。一二歳で天台宗の山岳霊場・清澄寺に入り、道善房を師として、四年後に出家。
 その後、比叡山を拠点に、京都や奈良の諸寺、四天王寺、高野山に遊学。念仏、禅、真言を経て、仏教の真髄を「妙法蓮華経(法華経)」に見出す。
 建長五(1253)年、「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、清澄寺で立宗宣言し、名を日蓮と改める。
 他宗批判を目的とした『立正安国論』を著し、幕府や僧からの反発を招く。生涯、四度の法難をくぐり抜けた。
 晩年は、甲斐国(山梨県)の身延に隠棲し、信仰指導を続けた。『開目抄』、『観心本尊抄』などを著述。他に、「大曼陀羅本尊」を完成させた。
 武蔵国(東京都)にて、六一歳で死去。皇室から日蓮大菩薩と立正大師の諡号(しごう)が贈られた。
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2007/8/2


見龍寺 御霊屋 Kenryuu-ji Otama-ya Otamaya at Kenryuji Temple

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 見龍寺(けんりゅうじ)は、宮城県遠田郡涌谷町字龍渕寺にある臨済宗の禅寺である。本尊は、如意輪観音。
 御霊屋(おたまや)は、見龍寺境内にある涌谷伊達家歴代の墓所で、県指定重要文化財とされる。
 江戸時代初期、仙台藩伊達家の伊達安芸宗重(だてあきむねしげ)が、幼君補佐の伊達兵部宗勝(だてひょうぶむねかつ)と奉行・原田甲斐宗輔(はらだかいむねすけ)の横暴を幕府に訴えると、原田が突然刃傷に及び、安芸は絶命した。その後、原田家は断絶、兵部も事件の責任者として失脚し、世に言う伊達騒動は終結した。
 天正一九(1591)年に開山した見龍廟は、寛文一一(1671)年、伊達安芸宗重の死去により見龍寺と改称し、2年後に御霊屋と呼ばれる墓が築かれた。
 墓所は二間四方、向拝つきの総ケヤキ素木造りで、当時を代表する建築様式を誇る。
 見龍寺の御霊屋は、後に忠臣と言われた、伊達安芸宗重の一族を弔う墓所である。
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2007/6/18


宿場 Shukuba Shukuba

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 宿場(しゅくば)は、江戸時代に存在した街道での駅逓(えきてい)事務を行うために設置された町場である。
 徳川家康によって関が原の戦い以降に整備され始め、東海道、中山道と整備されていき、最終的には甲州街道、奥州街道、日光街道の五街道や脇往還が設定された。
 宿場の重要な役割として、隣の宿場から運ばれてきた公用の荷や手紙等を、次の宿場まで運搬するという業務があった。そのため本陣、脇本陣、旅籠などの宿泊施設と、継ぎ送り業務を行う問屋場が中心なっていた。
 しかし、それら公用の労役・業務について、利益を上げることは困難であっため、幕府は地子免除・各種給米の支給・拝借金貸与等の特典を設け、宿場の保護育成につとめた。
 明治以降には鉄道等の交通事情の変化によって、通行する人も少なったため、徐々に衰退していくこととなる。
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