NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/5/20


宇土城 Uto-jou 

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 宇土城(うとじょう)は熊本県宇土市にあった城である。
 築城は鎌倉時代に宇土氏によってであるが、豊臣秀吉から戦の功績により加藤清正とともにこの地方を分割して支配していたキリシタン大名小西行長の居城として有名である。小西行長は宇土城を改修し南蛮の技術も取り入れ本格的な城とした。しかし行長は、関ケ原の戦いに敗れ処刑され、後には加藤清正の城となったが、江戸時代、慶長一七(1612)年に幕府の命により廃城となった。
 築城時には三層の雄大な天守閣が建てられていたが、現在は石垣と堀の一部を残すだけである。本丸跡は城山公園となり広場には小西行長の銅像が建てられている。
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2008/3/5


丸岡城 Maruoka-jyo Maruoka Castle

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 現存する日本最古の天守閣を誇る丸岡城。古風な野面積みの石垣の上に立つその天守は、小さいながらも素朴な姿を今に伝えている。その築城は天正四(1576)年。
 戦国時代、北陸地方を収めた織田信長は、働きに対する恩賞として、柴田勝家に越前の国を与え、豊原に築城を命じた。後に交通の利便性などから、その甥勝豊が丸岡に移築した。
 ニ層三階建の特異な建築法で、上層に廻縁をぐるりと巡らした望楼を乗せている。屋根の笏谷石製の瓦、太い出格子、黒い板壁など、初期の天守閣に顕著な特徴を持っている。
 丸岡城は、血が血を洗う戦乱期をくぐり抜けてきた。伝説によると、戦がある度に大蛇が現れ、霞を吹いて城を隠したことから、別名「霞ヶ城」とも呼ばれている。
 昭和九(1934)年、国宝に認定されたが福井大震災により倒壊。後に修復され、重要文化財となった。
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2007/12/21


尾張 大野城跡 Owari Oono-jou-ato Ono Castle Ruins in Owari

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 大野城は別名・宮山城ともいい、伊勢湾が一望できる青海山(せいかいざん)の山頂に築かれている。城主は尾張源氏の大野氏・一色氏・佐治氏四代と続いた。
 大野城主・佐治氏は、知多水軍を率いて海運による交易などを進め、伊勢湾の海上交通を支配する上で重要な役割を果たしてきた。織田信長の妹と後の徳川秀忠の妻となる姪が佐治氏に嫁いだことも、信長が知多水軍の輸送力を重要視していたためと伝えられる。
 織田信長の妹お市の末娘・小督の方(おごうのかた)は、城主・佐治与九郎のもとへ嫁いだ後、徳川三代将軍家光の母となる。
 現在は城山公園として整備され、二層の天守閣に見立てた展望台と城門が建てられている。伊勢湾をのぞむ天主閣からの景色は素晴らしい。また、物見櫓跡には大野城主であった佐治氏を祀る佐治神社がある。
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2007/12/10


小倉城 Kokura-jou 

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 小倉城(こくらじょう)は、福岡県北九州市小倉北区にあった城である。
 慶長七(1602)年、古城跡に細川忠興(ほそかわただおき)が築城を始め、七年かけて完成させた。
 寛永九(1632)年、細川家が肥後国に移ると、小笠原忠真(おがさわらただざね)が小倉城に入り、以後、小倉藩藩主の居城となった。
 天守閣は五層で、一から四層までは壁が白く、四層には屋根のひさしがなく、五層は黒く塗られ、四層より大きく造られた。石垣は野面積みで、足立山から切り出された自然石が使われたという。
 現在の天守閣は昭和に復元されたもので、内部には民芸資料館や出陣前夜の作戦会議の風景、乗って楽しめる大名かごなどがある。
 周辺は勝山公園となっており、庭園、松本清張記念館、リバーウォークなどの施設が連なる。
 小倉城は、今では周辺の住民の憩いの場となっている城跡である。
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2007/10/17


安土城跡 Azuchi-jou-ato Azuchi Castle Ruins

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 安土城跡(あづちじょうあと)は標高一九九mの安土山の裾野一帯に残る、歴史上に名を残す、織田信長の居城跡である。
 安土城は安土・桃山時代の幕開けとして、天正四(1576)年から三年の歳月をかけて、織田信長に命じられた丹羽長秀によって築城されたとされる。
 当時の最高の建築技術を駆使して造られたといわれ、また贅を尽くした壮麗な天守閣を持つ、非常に豪華な城郭であったといわれている。その僅か三年後、信長が倒れた本能寺の変の後に焼失して廃城となったという。焼失の原因は定かではない。
 城主の地位を感じさせる奥行きのある石垣、あちこちに建つ礎石、道の縁側に使われている石仏、焼失を免れた仁王門など、随所に長い歴史のロマンを感じさせる名城跡である。
 国特別史跡に指定され、城内石段の改修や天主(天守)・本丸跡の発掘調査、学術調査などが現在も行われている。
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2007/10/12


沼田城跡 Numata-jyou-ato Numata Castle Ruins

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 群馬県沼田市に所在。戦国時代の天文元(1532)年、この地方の有力者、沼田十二代の万鬼斎顕泰(ばんきさいあきやす)が築城したと言われる。当時は倉内城と呼ばれた。
 関東へ至る要衝の地であることから、越後の上杉氏や小田原の北条氏、甲斐の武田氏などの戦国大名により目まぐるしい争奪戦が繰り広げられた。
 江戸時代に入ると真田氏の所領となり、慶長二(1597)年から数年かけて、真田信幸により五重の天守閣を建造、二の丸、三の丸などが整備され、近世城郭に改修されたという。
 関東では珍しく石垣が築かれていた沼田城。現在残っている遺構はあまりないが、わずかに残る石垣や堀が当時の面影をしのばせる。春には樹齢400年の古木「御殿桜」が咲き、沼田城の興亡の歴史を静かに語りかけてくるようだ。
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2007/9/4


弘前さくらまつり Hirosaki-sakura-matsuri Hirosaki Cherry Festival

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 弘前市(ひろさきし)にある弘前公園では、毎年四月下旬から五月上旬に「弘前さくらまつり」が開催される。二月の雪燈籠まつり、八月のねぷたまつり、一〇月の紅葉まつりと共に弘前四大祭りのひとつに数えられている。
 この桜は正徳五(1715)年、京都から取り寄せたカスミザクラ二五本などを城内に植えたのが始まりとされている。その後明治時代に植栽が数回行われた。
 公園内には津軽氏の居城となった弘前城があり、中心には東北唯一の現存する天守閣がある。明治二八(1895)年に弘前公園となり市民に開放され、現在では、ソメイヨシノをはじめ約五〇種類二千六百本の桜が咲き乱れ、日本を代表する花見の名所となった。
 濠に連なる桜は水面間際まで枝が伸び、水面に写る桜の姿は格別である。また、夜になると明かりが灯され、夜桜のなかに浮かび上がる天守閣は幻想的な姿を見せる。
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2007/8/9


五万石藤まつり Gomangoku-fuji-matsuri Gomangoku Fuji Matsuri (Wisteria Festival)

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 愛知県岡崎市にある岡崎公園は、旧岡崎城の敷地内に造られた公園。約10ヘクタールの園内には天守閣がそびえ、家康公ゆかりの史跡なども多い。
 この公園の南側に、1300平方メートルの藤棚があり、五万石藤と呼ばれている。この藤は市の指定文化財であると共に、藤は岡崎市の花としても知られ、市民に親しまれている。明治四四(1911)年に設けられ、大きいものでは枝の長さが11メートルにもなるものもある。
 満開になる4月下旬から5月上旬にかけて行われるのが「五万石藤まつり」である。房が1メートルに達するものもあり、毎年多くの人で賑わいを見せる。期間中は夜になると夜間照明が灯され、昼間とは違う藤の姿が見られる。
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