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2008/5/26


府中市 大国魂神社 Fuchuu-shi Ookunitama-jinja 

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 東京都府中市、大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)は、景行天皇四一(111)年に創建、その約五〇〇年後の大化元(645)年に、武蔵国の総社となったとされる、長く古い歴史を持つ神社である。
 その後、一宮から六宮までを勧請して六所宮とし、総社と合祀して武蔵総社六所宮と称された。源頼朝、北条氏、足利氏など数多くの武将にも崇敬され、社殿などが造営されている。
 大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)を御祭神とし、神社を中心に甲州街道の宿場町として栄え、明治四(1872)年、社名は大國魂神社と改められた。
 毎年四月末から五月初めに行われる、古式ゆかしい例大祭「暗闇祭り」は、提灯の灯りだけを頼りに、人目に触れないよう神輿の行列を行う神事である。現在は夕刻に奉納されるようになったが、その伝統は今もしっかりと受け継がれている。
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2007/10/22


日牟禮八幡宮 Himure-hachiman-guu Himure Hachimangu Shrine

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 滋賀県近江八幡市宮内町にある由緒ある神社。
 第一三代成務天皇が高穴穂宮で即位した時に、武内宿禰(たけうちのすくね)に命じて造らせたと伝えられている。 
 日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)の名は、第一五代応神天皇が近江に出向かれた際、ここに御座所が設けられ、この場所から日輪の輪が二つ見えるとのことから、後に祠を建て「日群之社八幡宮(ひむれのやしろはちまんぐう)」と名付けられた。その後、持統天皇の時に藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟礼社と改められた。また、日牟礼とは、古代豪族の和珥氏(わにうじ)の祖である日觸使主の日觸(ひむれ)の転とする説がある。
 日牟禮八幡宮は、武神として崇敬され、蒙古襲来時の朝廷からの奉幣や、足利氏、徳川氏をはじめ戦国時代の名だたる武将たちも参拝し、関が原の戦の後には、家康も参詣している。
 昭和四一(1966)年日牟礼八幡宮と改称。
 神庫には数多くの重要文化財が保管されている。
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2007/10/12


志戸呂焼 Shitoro-yaki Shitoro Ware

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 志戸呂焼(しとろやき)は、静岡県島田市金谷(旧金谷町)で焼かれている陶器である。
 16世紀の室町時代末期に、美濃の陶工が志戸呂郷に窯を築いたのが始まりといわれ、天正一六(1588)年には、徳川家康より焼物商売免許の朱印状を授けられ、江戸時代初期にかけて広がった。
 茶人大名として名高い小堀遠州が「遠州七窯」の一つに志戸呂窯を数えた事から、一躍天下にその名を知られるようになる。
 志戸呂焼は、渋みと深みがある古式豊かな風情を漂わせている焼物である。素朴な色合いで、飾る花や他の器などとの取合せを気にさせないのが特徴といえる。
 名器と呼ばれる壺の裏には「祖母懐」や「姥懐」の刻銘がある事は有名である。
 志戸呂焼は、堅牢で湿気を寄せ付けない性質で、現在も茶壺や茶器を中心に焼かれている。
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2007/9/25


米倉鹿嶋神社 献饌行事 Yonekura-kashima-jinja Kensen-gyouji The Kensen Ritual at Yonekura Kashima Shrine

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 米どころ宮城の中心的役割を果たしているのが大崎市。ササニシキ、ひとめぼれなどが誕生した地として知られている。市役所から一キロ程の米倉(よねくら)地区にある鹿嶋(かしま)神社では、毎年九月九日と一〇日の二日間にわたり、献餞(けんせん)行事が執り行われる。献餞とは神道の祭式で、祝詞(のりと)を上げるに先立って、神官が神前に食物を供えることをいう。
 米倉鹿嶋神社は大崎開拓以来の古社とされ、戦前までは清和源氏足利氏(せいわげんじあしかがし)の一門・大崎氏の遺臣が祀ってきたが、その後は地域民も加わり祭事を続けている。初日は初穂献上に始まり、その他の儀を経て、神酒を戴き神饌を食する直会(なおらい)に至る。翌日の神輿巡幸をもって終わる。穀物の収穫に感謝する静かなこの祭事は、県の民俗文化財、風俗習慣に指定されている。
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2007/8/22


大滝山福生寺 三重塔 Ootaki-san-fukushou-ji Sanjuu-no-tou 

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 かつてこの場所に大滝山福生寺(おおたきさんふくしょうじ)という古い寺があった。創建は奈良時代で、鑑真和尚の開基と伝えられる。備前四八箇寺の一つでもある。
 南北朝時代には足利氏が再興し、全盛期には三三の僧房があったという。現在、福生寺という寺の存在はなく、福寿院、西法院、実相院という三寺が残されている。しかし、三重塔や仁王門など、往時をしのぶものもある。
 三重塔は、嘉吉元(1441)年に六代将軍・足利義教の再建といわれる。屋根は方形造の本瓦葺で、国指定重要文化財となっている。高さは約20メートルで、三重塔としては低い方であるが、室町時代の様式を備えた風格のある塔である。
 回りの僧房がすべて山野に戻ってしまい、三重塔だけが今も山の尾根に残されている。
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2007/8/2


宮城 安国寺 Miyagi Ankoku-ji Miyagi Ankoku-ji Temple

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 安国寺は、聖武天皇が国ごとに国分寺を建立させたのと同じく、一国一寺の計画で足利尊氏の指揮の下、全国に建立された寺である。
 今もそのほとんどは残っており、宮城県大崎市にある同寺も、その計画の下に全国に建てられた66寺の一刹である。
 国分寺は、各国における文化や教育の熟成を狙って建てられたものだが、安国寺はその考え方は同じながら、元寇以来の戦没者を弔い、国家の安泰を祈願するものとして多少の違いがある。寺の名前の由来ともなった「安国利生」即ち国家安穏衆生利益の祈祷と共に戦没者を弔う事で、日本を一つに纏め上げるために設けられた寺でもあるのだ。
 以降、幾度かの戦火に遭い、そのたびに焼失などしてしまっていたが、仙台藩二代藩主であった伊達忠宗の名により、宝暦二(1760)年に再建され、今に至っている。
 本尊には県の文化財にも指定されている木造阿弥陀如来像が鎮座しており、今も全国に散らばる六六刹と共に、世の中を見つめている。
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高清水城跡 Takashimizu-jou-ato The Takashimizu Castle Ruins

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 高清水城跡(たかしみずじょうあと)は、宮城県栗原市高清水東館にある城跡である。
 足利時代の延文元(1356)年、奥州ニ州の探題であった大崎一族の高泉直堅が城を築き、高泉(たかしみず)城と称した。
 大崎氏滅亡後、慶長九(1604)年からは亘理氏が、次いで宝暦七(1757)年からは石母田氏が領主をつとめ、明治維新まで続き、廃城となった。
 現在、かつての外濠は埋め立てられて高清水城外濠公園となり、園の中心には高清水城絵図の陶板が設置されている。
 水の町にふさわしく、子供たちが水遊びできる池なども配置され、四季折々の花も楽しめる。
 高清水城跡は、今も外堀の一部が残されており、戦国・江戸の高清水城の面影が偲ばれる、貴重な城跡である。
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2007/7/9


わたらせサマーフェスタ 足利花火大会 Watarase-sama-fesuta Ashikaga-hanabi-taikai 

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 利根川水系の渡良瀬川に架かる渡良瀬橋は、明治の末頃に木造橋から鉄橋に変わり、永らく人々の生活に役立ってきた。この橋から望む夕陽の美しさも有名である。
 足利花火大会(あしかがはなびたいかい)は、明治三六(1903)年に、この渡良瀬橋の完成を祝い花火が打ち上げられたのが始まりで、関東有数の規模を誇る伝統ある花火大会である。
 「わたらせサマーフェスタ」は、平成六(1994)年に足利花火大会の80回記念イベントとしてスタートした。
 ジャズなどのコンサートをはじめ、浴衣コンテストなど趣向を凝らした多彩なイベントが行われ、8月の第1土曜日にクライマックスの最終日を迎える。
 渡良瀬川の田中橋下流から大玉や仕掛け花火、スターマインなど約2万発の花火が2時間にわたり打ち上げられ夜空に様々な色が飛び交う。フィナーレは幅600mもある、2段掛けの豪華な大ナイヤガラが川を彩る。
 例年、約30万人以上の人出で賑わう事から「30万人の夕涼み」とも呼ばれている。
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