NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/19


高野純一 Takano Junichi Junichi Takano

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 創業、天保元(1830)年の「白木屋中村伝兵衛商店」の七代目中村悟氏を支えて店長を務める。
 江戸の京橋を流れていた京橋川。
 高速道路となったその河岸は昔「竹河岸」といい一日5、6万本の竹が水揚げされ、あらゆる生活品の材料が集まる場所であった。
 白木屋は初代藤兵衛が竹とホウキモロコシを使って箒を作り始めて以来、ずっと変わらずこの地で「江戸箒」を作りつづけている。
 高野氏と箒とのきっかけは、配達のアルバイトであった。初めて触れた江戸箒の「用の美」そして職人高木清一氏の仕事。それに惚れ込み、今では店を担っていく重要な人材となっている。
 「箒」には、使い捨ての関係にはない時間の流れがある。職人は使う場面を追求して箒に軽さとコシと柔らかさを実現させ、使い手は家を清める道具として畳から外へと順に下ろしながら箒と相棒になっていく。人と道具との関係性が、職人から使い手に受け継がれ、育まれていくのだ。
 材料、技、人。作り手として人と道具の関係を次世代に繋ぐため、ひとつひとつ行動し続けている。
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2008/9/11


楽焼 Raku-yaki 

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 楽焼(らくやき)は日本の伝統的な陶器の一種で、手捏ね(てづくね)と呼ばれる方法で轆轤(ろくろ)を使わず手とへらだけで形を作り、釉薬(ゆうやく)を施して焼き上げた陶器をいう。狭義には樂家の歴代当主による作品を示し、楽茶碗などとも呼ばれる。広義には同様の手法を用いて作った陶磁器全体を指す。
 一六世紀後半、瓦職人だった長次郎が、茶の湯を完成させた千利休の指導により、聚楽第を建造する際に使用された土を使って焼いた聚楽焼(じゅらくやき)が始まりとされる。その際、聚楽第の「樂」の一字にちなんで楽焼と名付けられ、長次郎を祖とする樂家の姓にもなった。正統な樂家の楽焼を本窯、傍流の楽焼を脇窯という。
 現在の樂家は京都御所の西方にあり、犬夜来と出格子を配した伝統的な京都町家のしっとりとしたたたずまいを残している。玄関石畳の奥に本阿弥光悦筆と伝えられる「樂焼おちゃわん屋」と書かれた暖簾がかけられ、母屋の奥の窯場と工房では、長次郎時代と変わらぬ伝統技法で作品が作られている。
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2008/9/2


手摺りカルタ Tezuri-karuta 

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 木屋町七条に店を構える松井天狗堂。ここに日本で唯一の「手摺りカルタ」を作り続ける職人、松井重夫氏がいる。
 昭和半ばの機械摺りへの転換で、すっかり姿を消し、今では日本で唯一の手摺りカルタ職人となったのが三代目の松井重夫氏である。
 カルタの原画が描かれた台紙に、正確に型を合わせ、色を一色ずつ丁寧に置いていく。色が増えるにつれ、徐々に艶やかな絵柄があらわれてくる。こうした作業は、かつては分業で行われてきたという。今は仕上げまで、全ての工程を一人で手掛けるため、完成まで約一ヶ月ほど掛かるそう。
 手間隙かかる手作業ならではの、独特の風合いがカルタ一枚一枚に刻まれている。
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2008/8/21


福山琴 Fukuyama-koto 

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 福山琴(ふくやまこと)は、広島県福山市に伝わる伝統的な和楽器である。国の伝統的工芸品に指定されている。
 起源は、元和五(1619)年、徳川家康のいとこである水野勝成が、福山に城を築いたころに始まると言われている。
 江戸時代の城下町では武士や町人の子女の芸事が盛んであり、備後十万石の城下町福山でも、歴代藩主の奨励もあって、歌謡、音曲が盛んに行われた。
 以来、琴の需要が多く、江戸時代初期から生産され始めた。
 最高級の桐乾燥材を使用し、精巧な細工が施される等、手作りの良さが随所にあふれている琴で、優れた音色、甲の木目の美しさ、装飾の華麗さは、経験豊かな琴職人の手作り技術によって生まれている。
 福山琴は現在、全国の琴の生産の7割以上を占めている琴である。
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2008/8/14


つづれ織 Tsuzure-ori 

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 つづれ織(つづれおり)は、日本に伝わる織物のひとつである。
 平織の一種で、緯糸(よこいと)に数色の色糸を使って、経糸(たていと)を包み込む事で、経糸を見えなくして緯糸だけで絵柄を表現する織物の事をいう。
 エジプトのコプト織、南米のインカ織、フランスのゴブラン織などもつづれ織の一種であり、日本でも非常に古くから伝わっており、正倉院の収蔵品の中にも見ることができる。
 図案どおりに、色糸を一本一本爪先で織りこんで模様を織り出していく方法で、帯、壁掛けなどに用いられる。
 職人は積年の熟練と根気、技術を要するのはもちろんの事、経糸の上に緯糸で絵を描く様な作業をするため、洗練された芸術的理解をも必要とされる。
 つづれ織は、非常に手間のかかる、伝統の高級織物である。
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2008/8/9


江戸刺繍 Edoshisyuu 

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 日本で刺繍が行われるようになったのは飛鳥時代のこと。中国から仏教が伝来し、金銅仏と並び刺繍による仏像、いわゆる繍仏(しゅうぶつ)が多数作られたのが始まりである。
 平安時代、公家社会が発達するにつれ、男子の束帯や女性の十二単衣(ひとえ)などの衣類に刺繍が登場し、安土桃山時代になると染めに刺繍を入れた相互性刺繍が多くなり、更に、装飾性を増していくようになる。
 江戸時代中期、天下太平の下で経済力をつけた町民階級が台頭し、あらゆる染色技術に刺繍も加えて絢爛豪華な着物を次々と生みだした。
 江戸の繁栄とともに江戸刺繍は隆盛を続け、当時、刺繍職人は繍箔師(ぬいはくし).縫物師(ぬいものし)とよばれた。
 江戸刺繍は図柄を置くときに空間を楽しむような刺繍の入れ方をするのが特色である。
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2008/8/4


本阿弥光悦 Honami-kouetsu Hon’ami Koetsu

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 本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)は、江戸時代初期の書家、芸術家。当代随一の数寄者として名を馳せるた。
 永禄元(1558)年、刀剣の鑑定や研磨を家業とする京都の本阿弥家に生まれ、書道や陶芸、漆芸、出版、建築、作庭など多岐にわたってその才能を発揮。
 特に書道の分野ではその才能を発揮し、近衛信尹(このえのぶただ)、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)と共に「寛永の三筆」と呼ばれ、和様書道の流派の一つである光悦流を創始した。
 同時代の俵屋宗達や尾形光琳らとともに「琳派」と呼ばれる作風を打ちたて、国宝の「楽焼片身替茶碗」や「舟橋蒔絵硯箱」、重要文化財の「鶴下絵和歌巻」などが残されている。
 元和元(1615)年には徳川家康から京都洛北の鷹ヶ峯に地を与えられ、一族とともに職人や町衆を集めて「光悦村」と呼ばれた芸術村を築いた。
 本人自身による製作の他に、製作総指揮のような役割も担っていたと考えられている。
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2008/7/15


帆布 Hanpu 

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 「帆布(はんぷ)」とは、その名の通り帆船の帆に使われる丈夫な綿布のことである。
 綿100%でつくられている平織りの厚い生地は、酒屋のまえかけなどに古くから使用されている。
 綿花が本格的に日本に到来したのは室町時代のことで、最初に確認された帆布は、織田信長の帆船だといわれている。
 明治に入ると、帆布は鉄道貨物のシート、テントといったものから、職人がお酒や醤油つくりの際に用いる腰布や、職人が持つ道具袋、牛乳配達袋、学生の鞄など、あらゆる用途に用いられた。生地の丈夫さを活かし、産業生活資材として様々な商品が大量に生産された。
 代表的な産地として知られているのが、岡山県倉敷市である。時代の流れと共に需要は減少したが、今でも倉敷は数少ない帆布の産地として、国産帆布の約7割を生産している。
 現在では産業資材としてトラックの幌、コンベアベルトの基布などがつくられ、生活関連品ではトートバックや拳法着、エプロン、シューズなどがつくられている。
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