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2008/7/14


小桜韋威鎧 Kozakuragawaodoshi-yoroi 

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 小桜韋威鎧(こざくらがわおどしよろい)は、山梨県甲州市塩山上於曾の菅田天神社(かんだてんじんじゃ)にある防具である。国宝に指定されている。
 菅田天神社は、承和九(842)年に創建したと伝えられる神社で、以来、甲斐武田氏の守護神として崇められてきた。祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)。
 小桜韋威鎧は、武田家代々の家督相承の印とされてきた鎧で、矢や刀を防ぐのに楯はいらないほどしっかりと作られているという意味から「楯無鎧(たてなしのよろい)」とも呼ばれている。
 武田氏の館の鬼門にあたるここに奉納したのは武田信玄で、織田氏侵攻により持ち出し、家臣によって向嶽寺(こうがくじ)の大杉の下に埋められていたのを徳川家康が発見し、再びここに戻したと伝わっている。
 小桜韋威鎧は、神功皇后の三韓遠征に功績をあげたとも伝わる、貴重な鎧である。
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2008/7/11


紺絲威鎧 Konitoodoshi-yoroi 

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 紺絲威鎧(こんいとおどしよろい)は、愛媛県今治市大三島町宮浦の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)に伝わる防具である。国宝に指定されている。
 大山祇神社は、推古天皇二(594)年に創祠されたと伝わる、日本総鎮守ともされる古社である。祭神は大山積神(おおやまつみのかみ)。国宝8件、国の重要文化財75件を所有する日本有数の神社である。
 源平合戦で、屋島合戦に軍船130隻を率いて源義経軍に加わり、後には奥州藤原氏の討伐にも参加した三島水軍の総帥である河野通信(こうのみちのぶ)所用と伝わっている。
 見目が大変美しく、現在は源平合戦時代の鎧の代表作であるとされている。
 紺絲威鎧は、屋島・壇ノ浦の合戦の戦勝のお礼に奉納したと伝わる貴重な鎧である。
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紫綾威鎧 Murasakiayaodoshi-yoroi 

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 紫綾威鎧(むらさきあやおどしよろい)は、愛媛県今治市大三島町宮浦の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)に伝わっている防具である。国宝に指定されている。
 大山祇神社は、推古天皇二(594)年に創祠されたと伝わる、日本総鎮守ともされる古社である。祭神は大山積神(おおやまつみのかみ)。国宝8件、国の重要文化財75件を所有する日本有数の神社である。
 紫綾威鎧は、鎌倉幕府の創始者・征夷大将軍の源頼朝(みなもとよりとも)が奉納したものとされている。
 鎌倉時代初期の作で、麻布の芯を綾布で包み、これをもって威した綾威の鎧は極めて珍しく、厳島神社に萌葱(もえぎ)綾威鎧が一領ある以外は紫綾威を含めて大山祇神社の四領を挙げ得るのみといわれている。
 紫綾威鎧は、鎌倉時代から伝わる、貴族的な趣を伝える鎧である。
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2008/7/10


赤絲威鎧 Akaitodoshi-yoroi 

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 赤絲威鎧(あかいとおどしよろい)は、日本の防具である。うち、5つが国宝に指定されている。
 鉄製または皮革製の短冊状の小さな板である小札(こざね)を、色糸やなめし革の紐を用いて縦方向に連結する事を「威す(おどす)」といい、元々は、威とは緒通しからの変遷であると言われている。赤い組紐で威した独特の日本鎧が、赤絲威鎧である。
 現在、そのうちの5つが国宝に指定されており、中でも愛媛県の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)が所蔵しているものは、源義経が奉納したと伝わっている。
 また、奈良県の春日大社(かすがたいしゃ)には国宝の赤絲威鎧が2つあり、うち1つはやはり源義経が奉納したと伝えられる大鍬型赤糸威竹に虎金物の鎧である。
 他にも、青森県の櫛引八幡宮と東京の御嶽神社に、国宝の赤絲威鎧が納められている。
 赤絲威鎧は、古くから日本で作られてきた伝統の日本鎧である。
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2008/7/9


甲冑 Kacchu 

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 甲冑(かっちゅう)とは、戦闘において身を護る防具の事である。
 時代によって変わるが、甲は鎧(よろい)、冑は兜(かぶと)の事をさし、鎧は、身体のうちに胴体に着用する防御具の総称であり、兜は頭部の防具事で、鉄・金銅・皮革などで作られる。
 日本甲冑は構造によって九つの形式に分けられるとされ、上古に用いられた短甲・挂甲・綿甲冑、中世の武家政権時代に用いられた大鎧・胴丸・胴丸鎧・腹巻・腹当、近世江戸時代に用いられた当世具足がその形式とされる。
 日本の甲冑は、世界の防具と比較しても彩りが豊かで美しい事で知られており、その取り扱いにあたっては、素材が多種多様にわたる事や、兜・胴を中心に各部分をつないで組み立てる事から、構造上の理解が必須となっている。
 現代では、工芸品的、歴史資料的性格も持っている。
 甲冑は、鎧・兜をはじめとした日本伝統の防具である。
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2008/7/7


沢瀉威鎧 Omodakaodoshi-yoroi 

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 沢瀉威鎧(おもだかおどしよろい)は、愛媛県今治市大三島町宮浦の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)に伝わる防具である。国宝に指定されている。
 大山祇神社は、推古天皇二(594)年に創祠されたと伝わる、日本総鎮守ともされる古社である。祭神は大山積神(おおやまつみのかみ)。国宝8件、国の重要文化財75件を所有する日本有数の神社である。
 沢瀉威鎧は、藤原純友の乱で純友の討伐に活躍した、共に軍事警察的な官職である追捕使(ついぶし)と越知押領使(おちおうりょうし)を兼任していた藤原好方所用と伝わる鎧で、940年前後に作られたとされ、日本に現存する最古の鎧と言われている。
 沢瀉とは別名「勝ち草」とも呼ばれる沢に自生する草の一種で、沢瀉威鎧は沢瀉の葉の形に似せて上を狭く、裾開きに作られている。
 沢瀉威鎧は、現代に残る最古のものとされる貴重な鎧である。
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2008/7/4


直垂 Hitatare 

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 「直垂(ひたたれ)」とは、上着、袴とも同じ裂地でつくった衣装である。裂地とは、染織した糸で模様を織り出す織物のことで、茶入れ袋や袱紗に使われている布地でもある。
 着物の左右の前身頃に縫いつけた、襟から裾までの細長い布「袵(おくみ)」がなく、襟が垂直に縫い付けられていることから、直垂という名称がつけられた。
 もともとは、筒袖仕立ての庶民の平服だった。平安時代になると、鎧下に着る際、行動の便が良いことから、武士が着用するようになった。
 鎌倉時代に入ると袖が大きくなり、体裁を整えて武家の平常服となった。幕府などへ出仕するときは、公式衣装として使われた。
 また、袖が大きい事で、戦の際、鎧下に着ることが不便になり、日常の直垂とは別に、かつての筒袖の直垂に近い形の「鎧直垂」が用いられるようになった。
 江戸時代には、三位以上の武家の礼服となった。
 現在では、大相撲の行司の装束や雅楽の楽師、祭礼の供奉人(ぐぶにん)などでつかわれている。
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2008/7/2


黒韋威胴丸 Kurokawaodoshi-doumaru 

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 黒韋威胴丸(くろかわおどしどうまる)は、広島県廿日市市宮島町の厳島神社(いつくしまじんじゃ)にある防具である。国宝に指定されている。
 厳島神社は、推古天皇元(593)年創建と伝わる古社で、全国の厳島神社の総本社とされる。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)他2柱。
 黒韋威胴丸は、黒漆塗地盛上げ小札(こざね)の技法や、牡丹獅子文染韋・筋兜の意匠から見て、南北朝時代(1333~1392)以前のものではないが、現存の胴丸のうちでは古く、保存が良く形姿が雄大で精巧を尽した作である。
 日本の鎧は小札と呼ばれる短冊状の小さな板で構成されているが、黒韋威胴丸は黒漆塗盛上げの鉄小札と革小札を一枚交ぜにして、濃い藍染めの皮をもって紺糸で隙間なく綴った毛引威(けびきおどし)としている。
 黒韋威胴丸は、日本古来より伝わる貴重な防具である。
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