NIPPON Kichi - 日本吉

記事数29件: 1~8 件表示     >>     >|  

2008/10/22


田舎館村 田んぼアート Inakadate-mura-tanbo-art 

Jp

 田舎館村・田んぼアート(いなかだてむら・たんぼあーと)は、青森県南津軽郡田舎館村が、村起こしの一つとして始めた、田んぼをキャンバスとして色の異なる米を使って巨大な絵を作り出すプロジェクトのことである。
 平成五(1993)年から始まったもので、田舎館役場の東側にある、約1.5ヘクタールの水田をキャンバスとして、黄稲と紫稲の古代米二種と、この地方で栽培されているブランド米の「つがるロマン」を使って、モチーフとなる絵になるよう、配色を考えながら植えられていく。
 村役場には天守閣を模した展望室が設置されており、配色や植える位置は、ここから眺めた時に最適となるよう、設計されている。
 モチーフとなる絵は、主に日本人の芸術作品が用いられており、これまでに恵比寿様と大黒様や葛飾北斎の「富嶽三十六景」、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」などが再現されている。
 田植えや稲刈りへの参加者も募集されており、見るだけでなく、作る喜びも味わえる、村を代表する一大イベントとなっている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/9/25


京都ゑびす神社 Kyouto-ebisu-jinja Kyoto Ebisu Shrine

Jp En

 京都ゑびす神社(きょうとえびすじんじゃ)は、京都府京都市東山区大和大路通にある神社である。
 祭神は千代言代主大神(やえことしろぬしのおおかみ)・大国主大神(おおくにぬしおおかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)。
 建仁二(1202)年、臨済宗開祖・栄西(ようさい)禅師により、建仁寺建立の鎮守として現在地に建立されたとされる。
 「商売繁盛で笹もって来い」で知られる、日本三大ゑびすのひとつで、「えべっさん」の名で親しまれている。
 ゑびす信仰の象徴とも言える笹は、京都ゑびす神社独自の御札の形態が広まったもので、節目正しく真直に伸び、弾力があり折れず、葉が落ちず常に青々と繁るといった特徴から、家運隆昌・商売繁盛の象徴となった。
 毎年一月八日~一二日には十日ゑびすが行われ、深夜まで多くの人々で賑わっている。
 京都ゑびす神社は、七福神の恵比寿信仰で親しまれる神社である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/8/22


大洲神社 Oozu-jinja 

Jp

 伊予の小京都とも呼ばれ、風情ある古い町並みが多く残っているため、テレビドラマのロケ地にも使われることが多い大洲市の、その美しい市街地が一望できる台地に大洲神社はある。
 元徳三(1331)年、大洲城初代城主、宇都宮豊房(うつのみやとよふさ)が築城した際に、城の総鎮守の神として生地より下野国(しもつけのくに)二荒山(ふたあらやま)神社を勧請し、「太郎宮」と名づけた。その後大正三(1914)年に久米神社、恵比須神社と合祀して、「大洲神社」に改称したとされる。祭神は大黒様と恵比寿様である。
 毎年、正月の九日から一一日までの三日間、大祭「えびすまつり」が奉納され、商売繁盛・家内安全・五穀豊饒を祈願する多くの参拝者で賑わう。境内には縁起物の福笹や熊手、枡などの露店が立ち並び、一〇日の「本えびす」には福入り餅まきなどが行われるため特に賑わいをみせる。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/8/21


高崎まつり Takasaki-matsuri 

Jp

 群馬県最大の祭りといわれる高崎まつりは、高崎藩主大河内家の先祖である源頼政を祀った頼政神社の祭りを起源としている。
 大河内家が明治初期に東京へ移ったこともあり一時衰退したが、道祖神祭り、高崎奉納祭、高崎ふるさとまつり、高崎まつりと、名を変えながら伝承されてきた。
 祭りでは各地で様々なイベントが開催されるが、初日には北関東最大級規模の花火大会が烏川和田橋上流河川敷にて行われ、七〇万人以上の人出で賑わう。
 高崎まつりと同時に高崎山車まつりが開催される。頼政神社の祭礼で使われた山車が今も伝承され、高崎市内の各地区には四〇台近く残っている。
 藤原定家、恵比寿、牛若丸など様々な人形が乗った山車が繰り出し、祭りを盛り上げる。それらが広場に集まる集結式はまさに圧巻である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/7/24


西宮神社 Nishinomiya-jinja Nishinomiya Shrine

Jp En

 西宮神社(にしのみやじんじゃ)は銘酒灘五郷の一つである兵庫県西宮市の中央に鎮座する神社である。日本に3500社もあるえびす神社の総社であり、地元では西宮のえべっさんとして親しまれている。
 創建時期は定かではないが、古い文献によると承安二(1172)年にその名がうかがえる。室町時代に大流行した七福神信仰の中心として謡曲、狂言などを通じて全国にその御神徳が知れ渡っていった。大阪文楽や淡路の人形浄瑠璃は西宮神社のえびす舞がルーツといわれている。その後も、豊臣家、徳川家からも篤い寄進を受け、商業の発展とともに商売繁盛の神様として大きく躍進していった。
 太平洋戦争では戦火に見舞われたが、昭和三六年に見事に復元された。室町時代建立の大練塀と桃山建築様式の表大門は国の重要文化財に指定されている。
 新年の初め、一月九日から一一日の三日間は十日えびすとして100万人を越える人々が訪れ賑わいを見せる。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/5/26


正宝院 Shoubou-in 

Jp

 正宝院(しょうぼういん)は、東京都台東区竜泉にある修験系天台宗の単立寺院である。本尊は不動明王。下谷七福神の恵比寿も祀っており、関東三十六不動霊場第24番札所とされる。
 享禄三(1530)年、修験者として修行後に諸国を巡歴していた正山上人は、この地に泊まった時に不動明王の加護を象徴する龍の夢を見た。上人は村人達の息災延命と、自らの旅の安全を祈って不動明王を刻み、この地に奉安したのがはじまりという。
 創建後まもなく、寺の住職が修行のため、本尊の不動尊を背負って大峯山まで運んだ。その間江戸の寺にて、不動尊の分身を携えた人々が集まり一心に祈ったところ、不動尊は一夜にして大峯山から江戸に飛び帰ったという。以来、飛不動尊と呼ばれるようになった。
 正宝院は、近年航空機の発達と飛不動が結びつき、航空安全を奉じられるようにもなった寺である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/5/20


福禄寿 Fukurokuju 

Jp

 福禄寿(ふくろくじゅ)は、道教における神様の一人で、恵比寿様や大黒天を初めとする七福神の一人としても知られている。
 道教においては「幸福」、「封禄」、「長寿」の三つが三徳として強く希求されるが、この三徳を具現化したのが福禄寿だとされており、名前も一字ずつ組み合わせたものとなっている。
 同じく七福神である寿老人と共に南極星の化身とされており、その姿も背が低くて長頭、白髪で長いひげを生やしていることなど、とてもよく似ている。
 また、手には長寿の秘訣が記されているという巻物を結わえた杖と、長寿の象徴である桃を持っているのも似ている。このため、寿老人とは同体異名の神とされることもある。
 ただ、伴っている動物には違いがあり、寿老人は鹿、福禄寿は鶴と亀を伴った姿で描かれたり像が造られたりすることが多い。
 その年齢は数千才とも言われ、長寿と人望においてご利益がある神様として、親しまれている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/3/4


花巻人形 Hanamaki-ningyou 

Jp

 花巻人形(はなまきにんぎょう)は、岩手県花巻市の伝統的な民芸品で、粘土で作られる土人形だ。 宮城県の堤人形と石川県の相良人形と並び、東北三大土人形のひとつにも数えられている。
 その興りは、京都の伏見人形や仙台の堤人形の製作技法を伝習した花巻鍛治町の人形師が、享保年間(1716~1735)から作りはじめたといわれている。
 節句に飾る内裏びなをはじめ、恵比寿様や大黒様などの縁起物から金太郎、山姥といった風俗物など多彩に製作されている。また、どの人形も花巻の名にふさわしく梅や桜、牡丹など春の花々が描かれ、素焼きの下地に胡粉を塗って背面は白いままで表面だけを彩色したり、人形を振ったときに音がするよう、中に小石や砂を入れるなどの特徴を持っている。
 その製作は昭和三十年代を最後に一時絶えてしまっていたが、昭和四九(1974)年に復活し、今に至っている。
 個性豊かな形や鮮やかな色彩、柔和な表情で、今も多くの人々に愛されている郷土民芸である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



記事数29件: 1~8 件表示     >>     >|  
NIPPON Kichi - 日本吉 - 日本語に切り替える NIPPON Kichi - 日本吉 - to english

モノ・コト・ミル・ヒトで綴る
日本の美意識。

現在の記事 5444
カテゴリーズ
都道府県
キーワードシャッフル
お気に入り
キーワード検索
閲覧履歴



Linkclub NewsLetter