NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/1/30


黒川岬 Kurokawa-misaki 

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 黒川岬(くろかわみさき)は、鹿児島県姶良郡加治木町から錦江湾(きんこうわん)に向かって突出した岬で、錦江湾をたたえた桜島の雄姿を望める名スポットである。
 湾奥になるため海面は静かで、沢山の小魚が泳いでいる様子を楽しむ事ができる。またシーカヤックでこの周辺を通過するとイルカと遭遇する事もあるという。
 朝鮮の役の際、陣僧として名将・島津義弘に仕えた鳳山が、晩年にこの地で「鳳山軒」という庵を結んで過ごした。第一八代藩主・島津家久は度々この庵を訪れ、黒川山に咲いた花々が鏡面のような波に映り込んだ様子を錦に例えて「浪のおり・かくる錦は磯山の・梢にさらす花の色かな」と詠み、ここから鹿児島湾の別称・錦江湾の名が起こったと言われている。
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2008/1/24


高田焼 Kouda-yaki 

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 高田焼(こうだやき)は別名・八代焼(やつしろやき)とも呼ばれ、熊本県八代市に四〇〇年以上伝わる焼物である。
 陶工・尊楷(そんかい)は、豊臣秀吉が朝鮮出兵した折に連れてきた、数多くの優れた技術者のひとりである。一度本国へ戻り、高麗焼の技法を身につけた尊楷は、慶長七(1602)年、現在の福岡県北九州市にあたる豊前小倉の藩主・細川忠興に招かれ、上野(あがの)の窯を築いたと言われている。
 その後、細川藩の肥後転封に伴って、尊楷は息子達と共に八代郡高田郷奈良木村に窯を開き、それが後に高田焼と呼ばれるようになったという。
 素地が完全に乾く前に模様を彫り込み、そこに白土を埋め込む。そして余分な土を削り落とした後に透明な釉薬をかける、白土象嵌(ぞうがん)と呼ばれる特殊な技法が特徴的である。
 高麗の伝統を日本の今に伝える、美しく貴重な焼物である。
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2007/12/14


徳重神社 Tokushige-jinja 

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 徳重神社(とくしげじんじゃ)は明治四(1871)年、廃仏毀釈で取り壊された妙円寺(みょうえんじ)の跡地に創建された。妙円寺に引き継ぎ、一七代藩主・島津義弘公を祀っている。
 島津義弘は、生涯五二度の合戦をくぐりぬけ八五歳で没した。朝鮮の役では一〇倍の規模の敵軍を打ち負かし、「鬼石曼子(おにしまづ)」と呼ばれ多数の功績を挙げたが、関ヶ原の合戦では、敵中突破のすさまじい退却戦となり、犠牲者の多い最も苦しい戦となった。
 徳重神社の本尊には義弘公の出家姿の木像がご神体として安置されている。 
 毎年一〇月の第四土日には、鹿児島市の照国神社から若者たちが鎧兜に身を包み、二二番まである歌を口ずさみながら神社に向かって練り歩く妙円寺参が行われている。
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七夕踊 Tanabata-odori 

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 鹿児島県いちき串木野市の大里地区で、毎年月遅れの七夕にあたる八月七日に近い日曜日に開催されるのが「七夕踊(たなばたおどり)」である。五穀豊穣を祈るこの祭りは、国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 大里地区出身の者は、必ず一度は太鼓を打たないといけないと言われており、県外に出ている者も毎年この踊りに参加するため帰省する。
 この踊りは約四〇〇年前に、島津義弘の朝鮮の役での凱旋祝いをたたえたものとして踊られたのが始まりとされる。
 太鼓踊りを中心に「つくいもん」と呼ばれる牛・虎・鶴・鹿などの大きな張り子の作り物が登場し、狩人とのやりとりを披露する。大名行列、琉球王行列、薙刀行列、甲冑行列などの行列が繰り出され、太鼓と鉦を持った二〇数名によって風流念仏(ふりゅうねんぶつ)太鼓踊りが踊られる。大里地区の色々な神様や先祖霊に踊りを奉納し、豊作を願う。
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バラ踊り Bara-odori 

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 竹製のザルをバラと呼び、これに紙を貼って太鼓にしたものを叩いて踊るのが「バラ踊り」である。毎年九月の第三日曜日に、さつま町中津川にある大石神社大祭で奉納される。
 この踊りのはじまりは、豊臣秀吉が朝鮮出兵した際、凱旋祝いとして従軍兵士に踊らせたという説や、出稼ぎにきたバラ職人が、商品が売れるように発案して広めた説、そして島津義弘が関が原の合戦で敵中突破をし、無事に帰ってきたときのお祝いに、即席に民家のバラを叩いて踊った説などが伝えられている。
 バラ踊りは、鉦組とバラ組に分かれ、二列に並んで左右に分かれて円陣を作り、頭鉦の合図で踊りだす。バラは外円をぐるぐるまわりながらばちでバラを打ち叩き、鉦は内円を走りまわって鉦を打ち鳴らし、頭鉦の合図で踊り終わるものである。
 地元の小学校に文化財少年団を結成し、この民俗芸能を習得し、見事な演技を披露している。
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2007/11/29


佐土原人形 Sadowara-ningyou 

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 佐土原人形(さどわら人形)は宮崎県の佐土原に古くから伝わる土人形である。
 人形作りのはじまりは慶長二(1597)年の、豊臣秀吉が朝鮮に出兵した朝鮮の役の後、佐土原の高麗町に移り住んだ高麗人が作ったのがはじまりといわれている。時の藩主島津豊久がこの人形作りを奨励し、人形作りは産業として発展していった。
 佐土原人形は土の素朴さを生かした温かな彩りが特徴で人形の眼や表情には工夫を凝らし独特の表情を表現している。昔から節句人形として定評があり重宝がられてきた。種類も多く、端午の節句の鯉持、馬乗、桃の節句の内裏雛”等がある。また、江戸時代にこの地で栄えた佐土原歌舞伎を題材とした忠臣蔵、いがみの権太、静御前と狐忠信などの作品も多く作られてきた。
 明治から大正にかけて佐土原人形は全国に知れ渡るようになり、その人気は今でも高く、人形作りの技術は今日まで引き継がれている。
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2007/9/13


瑞巌寺 御成門、中門 Zuigaan-ji Onari-mon,Naka-mon The Onari-mon and Naka-mon Gates at Zuiganji Temple

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 奥州随一の禅寺・瑞巌寺(ずいがんじ)は天長五(828)年、慈覚大師円仁によって開創され、伊達家の菩提寺として知られる。正式名は「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい、別名松島寺ともいう。
 現在の建物は、慶長一四(1609)年、名工一三〇人を集め、政宗が五年の歳月をかけて建立したものである。
 本堂と御成玄関・回廊・庫裡は国宝に、御成門・中門・太鼓塀は国の重要文化財に指定されている。
 御成門は、入母屋造本瓦葺の薬医門で、重厚な趣をみせている。
 御成門の右側にある中門は本堂の前にあり、四脚門で切妻造、こけら葺きで、壁がなく骨組みが露出している。中門両側には、政宗が朝鮮出兵の際、持ち帰って植えたとされる紅白の臥竜梅(がりゅうばい)が植えられている。臥せた龍に似ていることから臥龍梅と名付けられ、四月中旬が身頃となる。
 御成門・中門は対照的な趣向となっており、土壁は白壁で、中空の太鼓塀になっている。
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2007/8/14


富谷の田植踊 Tomiya-no-taue-odori Taue Odori in Tomiya

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 富谷の田植踊(とみやのたうえおどり)は、宮城県黒川郡富谷町に伝わる郷土芸能である。県の重要無形文化財に指定されている。
 田植踊りは古くから郡内各町村にあったが、現在では富谷町の原地区に残るだけとなっている。
 文禄元(1592)年、伊達政宗が秀吉の命によって文禄の役に出陣する際、門出に当たって原の田植踊りを披露すると、政宗はこれを褒め、褒美として踊りの衣装の裾に伊達家の家紋である「竹に雀」のうち、「竹の葉」の使用が許されたといわれている。
 以来400年、今日まで継承してきたのが富谷の田植踊である。
 構成は早乙女4、弥十郎2に太鼓、笛、唄上げなどであり、芸態は他所の田植踊と大きく違いはないが、早乙女や弥十郎の冠物に飾りがなくシンプルであるほか、意匠の紋の「竹の葉」が特徴とされる。
 富谷の田植踊は、代々受け継がれてきた貴重な民俗芸能である。
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