NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/2/7


茶室 Chashitsu 

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 茶室(ちゃしつ)の歴史は室町幕府の八代将軍・足利義政が、京都大徳寺の一休禅師の門下、村田珠光(むらたしゅこう)と能阿弥(のうあみ)とその子芸阿弥(げいあみ)孫の相阿弥(そうあみ)の四人とともにそれまでとは違う、茶会の作法を編み出した時にはじまる。四人は広い座敷の中に一丈(十尺四方)の屏風で囲み、茶の道具である台子を前に行う台子手前で茶礼を行った。これが茶室のはじまりである。
 村田珠光の時代は書院風茶室であったが、武野紹鴎(たけの じょうおう)の時代には四畳半の茶室がつくられた。その後、千利休の時代になると屋根の形は入母屋から切妻へと変わり、壁も土壁、格子も細竹の連子と草庵の茶室に変わっていき、さらに、三畳から一畳半の広さで行う侘茶の作法と変わっていった。
 その後江戸時代にかけて活躍した古田織部(ふるたおりべ)が床の間をもつ四畳半台目の席を考案し、徳川将軍家の茶道指南役であった小堀遠州が完成させた。
 茶室とは日本文化が作り出した美と意識の交差する空間である
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2008/1/15


織部釉 Oribeyuu 

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 戦国武将・古田重然(ふるたしげてる)は、徳川家に仕えた武将でありながら優れた茶人として「古田織部(ふるたおりべ)」という名前で知られ、茶器製作をも手掛けたという。その織部が美濃窯で焼かせた斬新で個性的な作品は、織部の名前に因んで「織部焼」と名づけられた。
 織部焼には赤、黒、青などがあるが、青織部に施されている釉薬(ゆうやく)は、織部の名前に由来して織部釉と名づけられ、織部焼の代表的なものとされている。
 織部釉は高火度釉に分類される緑銅釉で、一二〇〇度以上の温度で溶けて酸化焼成によって緑色になるという。
 「織部好み」という流行をもたらしたと伝えられている、斬新で奇抜ともいえる形や色使いは、桃山時代の人々を大いに魅了したといわれている。
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2007/11/22


辰砂(シンシャ) Shinsha 

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 辰砂(しんしゃ)とは、硫化水銀からなる鉱物である。
 銅紅釉(どうこうゆう)と呼ばれる事からも解るように、銅分の酸化によって得られる織部釉(おりべゆう)などの銅緑釉(どうりょくゆう)に対して、還元されて得られる様々な色合いを言う。
 辰砂という名前は、中国の湖南省辰州産のものが質が良く有名であった事による。
 日本でも弥生時代から産出され、古くは「丹(に)」と呼ばれ、水銀の重要な鉱石鉱物とされていた。
 魏志倭人伝の邪馬台国にも「其山・丹有」と記述されており、古墳の内壁や石棺の彩色、壁画に使用されていた。
 日本画などの岩絵の具の原料であり、陶芸ではこれに似た色の釉薬を「辰砂釉(しんしゃゆう)」というようになった。
 辰砂は、水銀の精製や赤色顔料として重宝される原料鉱物である。
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2007/1/31


赤津焼 Akazu-yaki Akazu Ware

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 赤津焼は、約1000年前が起源のされている。赤津地域のみ産出したとされる原料や、陶土に恵まれたことが、すぐれた陶工職人を輩出したと思われる。
 使用する陶土は本山木節粘土と赤津がいろ目粘土、赤津山土に限定される。
 仕上げに近い工程で使われる七色の釉薬は平安時代の灰釉に始まり、黄瀬戸、志野、織部など、その美しさは見事な輝きを放つ。
 時代が変わると全国的に陶器の作品が主流であったものが磁器に変化していく中、赤津では陶器へのこだわりを追求し、ぬくもりある質感を大事にし、ほとんどが家内工業として受け継がれてきた。
 主な製品には茶華道具や皿、椀などの一般品が多い。伝統的工芸品に指定されている。
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