NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/11


佛山寺 Bussan-ji 

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 大分県由布院の佛山寺(ぶっさんじ)は、明治の廃仏毀釈が行われるまでは宇奈岐日女神社(うなぐひめじんじゃ)またの名を六所宮(ろくしょぐう)と一体になって栄えた古刹である。
 本尊は由布岳の観音菩薩。かつて湖であった湯布院を盆地に変えたと伝えられる宇奈岐日女と習合していた。
 寺伝によると康保年間(964〜968年)、聖空上人の開山と云われ、当時の堂宇は由布岳の中腹にあり天台宗であった。その後、江戸時代に臨済宗となって現在の地に移転した。
 全盛時には10ヶ所の末寺を有した湯布院を代表する中心的寺院で、今も境内には青面金剛塔や金光明王塔が竹林や大杉の合間に建ち、山門、本堂、庫裡がすべて落ち着いた雰囲気を保っている。平成六(1994)年の火災で本堂を焼失したが、再建され現在に至る。
 また、500メートル程離れた金鱗湖に浮かぶ鳥居はこの佛山寺にあったもので、廃仏毀釈に伴い天祖神社付近の湖面に移されたものである。
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2008/3/5


弥彦神社 yahiko-jinjya yahiko Shrine

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 越後平野の中央にそびえ立つ弥彦山の麓に、弥彦(伊夜比古)神社(やひこ(いやひこ)じんじゃ)はある。越後国の一ノ宮である。
 境内はうっそうとした樹林に覆われ、長い月日を経てきた老杉、古欅が佇んでいる。その創建年代は不詳だが、万葉集にも歌われたほどの古社。
 祭神は天香山命(あめのかごやまのみこと)。神武天皇の命を受け、越後国開拓のため地元の民に、漁労や製塩、稲作や養蚕などの農耕術を教えたという。かつては、伊夜比古さまと呼ばれ、越後の人々の心のふるさと、魂のよりどころとして、古くから栄えてきた。
 日本有数の長い日本刀である志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)や、源義家や源義経らに所以すると伝えられる武具などの文物が、社宝として宝物館に展示されている。
 現在の社殿は、火災のために焼失した後、大正五(1916)年に再建されたものである。
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2008/1/8


旧取手宿本陣 Kyu-toridejuku-honjin Old Toridejuku Honjin

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 貞享四(1687)年に、水戸街道を通る大名などが利用する宿である本陣として取手宿の名主である染野家が選ばれた。それが旧取手宿本陣(きゅうとりでじゅくほんじん)である。
 寛政六(1794)年に一度焼失、翌年に立て直されたものが現在の母屋である。
 寄棟茅葺、桁行19m、梁間13・3mの大型の民家だが、式台玄関の上部に入母屋破風を造っており、重厚感を出している。
 内部は、宿泊を行う本陣部分と住宅部分が分かれており、三間続きの間や、書院造りの上段の間等があり、風格を重んじた造りとなっている。
 敷地内には、第9代水戸藩主徳川斉昭が天保一一(1840)年に水戸に戻る途中の利根川での船で詠んだ唄「指して行 さほのとりての渡し舟 おもふかたへは とくつきにけり」と、石に刻んだ歌碑が残っている。この歌碑は、後に江戸屋敷から届けられたもので、水戸徳川家と染野家のゆかりを示している。
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2007/11/12


雪野寺(龍王寺) Yukino-dera(ryuuou-ji) Yukinodera (Ryuoji Temple)

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 雪野寺(ゆきのでら)は、滋賀県蒲生郡竜王町川守にある天台宗の寺である。本尊は、薬師如来。
 標高308mの雪野山麓に存在する、奈良時代中期に行基が雪野寺という名称で創建した寺であるが、度重なる火災で焼失し、平安時代に龍王寺(りゅうおうじ)に改称して再興された。
 龍王寺が正しいが、今でも雪野寺や野寺などと呼ばれている。
 この寺の梵鐘は、古くから「野寺の鐘」として親しまれており、大蛇であった美女の伝説が残っている。鐘は、本尊の左右脇段の十二神将立像と共に、国の重要文化財に指定されている。
 毎年、旧暦の仲秋の名月である8月15日には、ぜんそくによく効くといわれる「へちまのお加持」が行われている。
 雪野寺は、多くの参拝客が訪れる篤く崇敬されている寺院である。
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2007/10/31


霊亀山 天龍寺 Reikizan Tenryuu-ji 

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 霊亀山天龍寺(れいきざんてんりゅうじ)は、臨済宗天龍寺派の大本山で、本尊は釈迦如来である。
 暦応二(1339)年、後醍醐天皇が崩御したとき、その菩提を弔うため、夢窓疎石(むそうそせき)が足利尊氏に進言し、創建された寺である。
 至徳三(1386)年に、京都五山の第一位を占め、大いに繁栄したが、度々の火災により堂宇を焼失してしまった。現在の諸堂は、明治以後に再建されたものである。
 大方丈前にある夢窓疎石がつくった池泉回遊式庭園は、室町様式を現在に伝える上で重要な役割をしており、国の特別史跡名勝の第一号に指定された。平成六(1994)年に世界文化遺産に登録された。
 標高三七五メートルある嵐山は、元は天龍寺の境内であった。後醍醐天皇の霊を慰め、吉野より多数の桜が移植されたことから、今では全国的に有名な桜の名所となっている。
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渡月橋 Togetsu-kyou 

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 「渡月橋(とげつきょう)」は、京都嵐山の桂川に架かる、全長一五五メートルの橋である。
 別名「嵐橋」とも呼ばれるこの橋は、承和三(836)年、弘法大師の弟子である道昌(どうしょう)が、大堰川(おおいがわ)修復のとき架橋したものである。
 亀山上皇が、曇ひとつない夜空に、まるで月が橋を渡るかのような風景をみて「くまなき月の渡るに似る」とひと言もらしたことから「渡月橋」の名がついたといわれている。
 この橋は、応仁の乱での焼失や洪水などで幾度か再建されたが、慶長一一(1606)年に角倉了以(すみのくらりょうい)によって現在の位置に架けかえられた。
 現在の橋は昭和九(1934)年に鉄橋として改修されたものだが、橋の欄干(らんかん)や桁隠しやは木製を使い、昔の面影を今に伝えている。
 渡月橋の南には、桜の名所で全国的に有名な標高三七五メートルの嵐山がある。お花見や新緑、紅葉や雪景色など、まさに四季折々の素晴らしい景観が楽しめる場所である。

 
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2007/10/23


廬山寺 Rozan-ji 

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 廬山寺(ろざんじ)は、京都市上京区寺町通広小路にある圓浄宗本山の寺院。本尊は平安時代作の阿弥陀如来。
 天慶元(938)年、比叡山天台一八世座主・元三大師良源によって、平安京の中心軸「朱雀大路」の延長線上に位置する船岡山の南に創建。寛元年間(1243~46)に僧・覚瑜が再興し、中国の廬山にならって廬山天台講寺と号した。応仁の乱で焼失。その後、信長の焼き討ちは免れたが、後に秀吉により現在地に移される。
 平安時代には、紫式部の曽祖父、権中納言藤原兼輔(堤中納言)の邸宅があった場所で、紫式部はこの地で育ち、ここで「源氏物語」「紫式部日記」などを執筆したと伝えられている。紫式部にちなんだ源氏の庭は砂の白と苔の緑が巧みに配され、そこに清楚な桔梗が色を添え、他に類を見ない気品のある見事な庭園となっている。
 また、京都北山に聖徳太子が建立した金山天王寺の本尊の如意輪観音菩薩と脇侍の毘沙門天像は、明治以降、この廬山寺に安置され洛陽三十三ヶ所観音霊場や京都七福神として信仰を集めている。
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日本橋 Nihon-bashi 

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 日本橋(にほんばし)は、東京都中央区にある日本橋川にかかる橋である。国の重要文化財に指定されている。
 慶長八(1603)年、徳川家康の全国道路網整備計画に際し架けられたもので、翌年には五街道の基点とされた。
 初代は木橋で、室町一丁目と通一丁目を南北に結ぶものであった。以降、焼失などによって度々架け替えられ、現在架かっている第19代日本橋は、明治四四(1911)年に架けられた石造の二連アーチ橋である。
 戦前は東京都区部の道路元標となっており、日本の道路網の始点であった。
 日本三名橋の一つに数えられているが、近年は首都高速道路に覆われており、かつての景観が失われている。
 日本橋は、古くから道路の始点として知られた橋である。
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