NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/6/21


宮大工 Miya-daiku Miyadaiku

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 宮大工(みやだいく)は、神社仏閣の建築や補修を行う大工。堂宮大工(どうみやだいく)とも言われる。
 何年も自宅を離れ社寺のある土地に住み、技法などを研究しながら仕事を行うため「渡り大工」とも呼ばれる。
 通常の大工とは違い、神社や仏閣はそれぞれが一つしか存在しない建物のため、同じものを作ることはない。また、補修を重ね後世に渡る建造物を手がけるため、高度な技術はもとより、考古学・地質学等の多岐にわたる知識が必要になる。
 三百以上の道具を使い、釘を使わず接木を行う「引き手」や「継ぎ手」などの伝統的な技法を利用するが、これらの技術は師匠から弟子へ口伝されるが、かつては日本に数百名いるとされていた宮大工も、現在は百名程度となった。
 著名な宮大工には「法隆寺昭和の大修理」の棟梁となった西岡常一氏や「浅草寺観音堂」の修理を行った佐々木嘉平氏、「海住山寺五重塔」の修理を行った文化財保存技術者の松浦昭次氏などがいる。
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2006/12/15


適塾 Teki-juku Tekijuku 

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 適塾は蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が、江戸時代後期の天保9年(1838年)に大坂・船場に開いた蘭学の私塾。
この塾では日本を代表する人物、福沢諭吉、大村益次郎、高松凌雲など、幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出した。漫画家、手塚治虫の曽祖父にあたる手塚良仙も門下生の一人であった。
塾は、明治維新後、大坂医学校の開校にあたり、教師・塾生は移籍、その歴史を閉じた。現在は大阪大学医学部であり、日本で一番古くからの医学教育の伝統を継承している。
適塾の建物は現在も適塾管理運営委員会の管轄の下で保存されている。建物の右隣には、緒方洪庵の銅像がある。二階には塾生の部屋があり、その柱には無数の刀傷が残っている。これはおそらく、ここで激論の末にできた傷だと言われており、その時代の人物、背景が伺われる。
昭和39年(1964)国の重要文化財に指定されている。
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2006/11/29


開明学校 Kaimei-gakkou Kaimei School

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 1882年に愛媛県、西予市に建築された、当時としては珍しいドイツ製のガラスがはめられたアーチ窓がある擬洋風なモダンな校舎。1997年に国の重要文化財の指定を受けた。
 現在は貴重な資料約6,000点が収蔵された博物館としても利用されている。内部には江戸から昭和初期にかけての教科書や学校経営資料などが展示されている。年に1度、「遊べや学べ明治の学校」と銘打った1日体験入学もある。
 開明学校の外見は「小さな蔵」を思わせるような白壁造り。入り口は「唐破風」で、懐かしさが漂う日本の伝統的木造建築。
 開明学校の前身となった私塾「申義堂」(開明学校の右手に建つ)では、この地ゆかりの人物で有名な「シーボルト」、その弟子「二宮敬作」などが集まっていた。またシーボルトの娘「お稲」は14才から二宮に医学を学び、日本初の「女医」となった。
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