NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/2/8


二王座 Niouza Niouza

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大分県臼杵市に位置する「二王座(におうざ)」は、安土桃山時代以来の武家屋敷の面影をとどめる、由緒ある通りだ。平成五(1993)年には国の「都市景観一〇〇選」に選ばれている。
 二王座は、もともと阿蘇山の火山灰が固まってできた凝灰山の丘を切り開いて作った道。二王座の名前は、かつてこの界隈に祇園社(現八坂神社)の仁王門があり、仁王が睨みをきかせていたことに由来するという。
 この道には寺も多く散在し、格式ある寺院の大きな屋根や武家屋敷の瓦屋根、城壁、それに石畳がつづき、風情ある静かな趣をたたえている。
 通りにはお休み処「旧真光寺」や「稲葉秀道屋敷跡」が無料解放されているので、散策の途中に立ち寄ってみるのもいい。そのほか、旧真光寺近くには古戦場跡の「切通し」などがあり、見どころも豊富だ。
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丸毛家下屋敷 Marumouke-shimoyashiki The Marumou Family Lower Mansion

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 城下町・臼杵市のシンボルである「丸毛家(まるもうけ)下屋敷」。江戸後期の建築様式をそのままとどめた上級武家屋敷である。
 丸毛家は、もともと美濃国(現岐阜県)の武士で、明智光秀の家臣であったが、天正十(1582)年の山崎の合戦で光秀が豊臣秀吉に敗れてからは長い間流浪していたという。再び丸毛家が返り咲いたのは江戸時代の寛永五(1628)年。初代臼杵藩主、稲葉貞通が丸毛氏の遠縁にあたることから、臼杵藩の召し抱えとなる。その後明治維新まで、丸毛家は臼杵藩の上級武士として君臨したという。
 丸毛家下屋敷の最大の特徴は、来客用の「表」と、家族の生活の場である「奥」に分けられ、壁によって完全に区切られていることである。部屋だけでなく、玄関も来客用の「表玄関」と家人用の「内玄関」に分けられており、体面を重んじる武家の格式が偲ばれる造りとなっている。
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2007/1/29


大原邸 Ohara-tei Ohara-tei

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 旧杵築藩の上席家老大原氏の屋敷であり、大分県北台武家屋敷の代表格とされる。
 宝暦年間(1751〜1764)、相川東蔵がこの地に住んだのが最古の記録とされ、後に岡三郎左衛門が「桂花楼」と名づけるが転居、後に御用屋敷となった。文政(1818〜1830)以降に大原家がこの屋敷に住んだとされる。
 その格式は杵築一と評されており、堂々たる長屋門から始まり重厚な玄関構えと茅葺屋根、接客部屋と居住部屋とが完全に分離された間取り。身分の高い人物の出入口となる式台が作られている事からも伺える。
 本格的な池泉回遊式庭園を有しており、大きな池と整った庭園からも当家が普通の武家屋敷では無いことを物語る。
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2007/1/26


黒石城 Kuroishi-jo Kuroishi Castle

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 1656年、弘前藩主津軽信義の弟信英が、兄の遺領のうち5千石を分知され、陣屋を築いたのが始まり。形式は平城だが、陣屋といっても立派な城郭である。別名烏城(うじょう)ともいう。
 黒石津軽氏は、8代親足が1809年に宗藩より6千石を分与され、都合1万石で大名となり、それ以後藩体制が確立した。
 明治4年廃藩置県により黒石陣屋は一般に解放され、居館(御殿)は津軽家から黒石町に寄贈され黒石小学校として使用された。現在は御幸公園となっている。
 公園のほとんどは広場になっており、南部分に堀切をはさんで小さな郭が残っており往時を偲ばせている。
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