NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/9


江戸刺繍 Edoshisyuu 

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 日本で刺繍が行われるようになったのは飛鳥時代のこと。中国から仏教が伝来し、金銅仏と並び刺繍による仏像、いわゆる繍仏(しゅうぶつ)が多数作られたのが始まりである。
 平安時代、公家社会が発達するにつれ、男子の束帯や女性の十二単衣(ひとえ)などの衣類に刺繍が登場し、安土桃山時代になると染めに刺繍を入れた相互性刺繍が多くなり、更に、装飾性を増していくようになる。
 江戸時代中期、天下太平の下で経済力をつけた町民階級が台頭し、あらゆる染色技術に刺繍も加えて絢爛豪華な着物を次々と生みだした。
 江戸の繁栄とともに江戸刺繍は隆盛を続け、当時、刺繍職人は繍箔師(ぬいはくし).縫物師(ぬいものし)とよばれた。
 江戸刺繍は図柄を置くときに空間を楽しむような刺繍の入れ方をするのが特色である。
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2008/2/15


川崎和男 Kawasaki Kazuo Kawasaki Kazuo

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 1949年福井県生まれ。デザインディレクター。医学博士。
 金沢美術工芸大学産業美術学科卒業後、東芝に入社。伝説のオーディオAurexをロゴを含めて手がけたのち、1979年に独立。2年後には地元、福井に拠点を移す。以降、ナイフ、液晶テレビ、眼鏡、人工心臓にいたるまで多岐にわたる製品のデザイン、研究を進める。
 2001~03年まで、グッドデザイン賞審査委員長。現在、大阪大学大学院工学系研究科教授のほか、同大学コミュニケーションデザインセンター、未来医療センター、フロンティア研究センターの各教授も兼務する。
 デザイナーとは「理想主義を、具体的に目に見える形で提案できる職業」だとし、数学、サイエンス、テクノロジー、アート、すべてを導入して、冷徹に、そして厳密に現実を構築していく。
 DESIGN A DREAM デザインの力で世界を変えることができると、本気で信じているデザインディレクターが、日本には少なくとも一人は、いる。
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2007/12/25


人工心臓 Jinkou-shinzou Artificial Heart

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 「もし人工心臓を入れるのなら、痛くなく、かっこいいものにしたい。」デザイナーは、体内という外からは見えない人工臓器に対して、機能の向上性と美意識を求めた。
 それを可能に近づけたのが光造形という技術だった。光造形とは三次元CADデータを紫外線を使い、樹脂を立体物に成型するシステムである。空想上存在していた「だまし絵」のような複雑なかたちのものを、正確に現実の世界に成型することが可能。
 最先端の技術開発における近年のキーワードとして「融合」という言葉があげられる。これまで「壁」となってきた限界を、異分野の発想や技術と融合させることで、打ち破る。この人工心臓は、心臓移植に変わるものとして、その開発にあたっても今までの医療の分野を超えた視点から取り組まれている。
 今後のアプローチに期待がかかる。
 
■デザイン・ディレクター/医学博士
 川崎和男
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2007/12/14


照国神社 Terukuni-jinja 

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 照国神社(てるくにじんじゃ)は鹿児島市中心部にある、島津家二八代当主・島津斉彬(しまづなりあきら)を祭神として祀る神社である。
 島津斉彬は曽祖父の影響をうけ、砲術、科学技術、地理学など西洋文化に明るく、シーボルトとも交流があったとされる。藩主就任から亡くなるまでの七年間、富国強兵、殖産興業を掲げ近代洋式工場群の建設を興し、のちの日本の近代化に大きな影響を残す事となる。薩摩切子も事業の一環であり、高度なガラス工芸へと発展した。
 安政五(1858)年の急死後、勅令により照国大明神の神号が授与され、名刹南泉院の跡地に照国神社として社殿が建立された。
 境内には島津斉淋、久光、忠義の名士像が立っている。
 六月中旬には第二代藩主・島津光久の灯した献灯を起源とする六月灯という祭りが市内の各所の寺社で開催される。照国神社は最も規模が多く、約一千個の灯籠が参道に並び、幻想的な風景を映し出す。
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2007/11/20


香 Kaori 

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 香(かおり)は、古代から人間の生活に深く関わってきた、重要な文化である。
 人が良い香りに接した最初の方法は、芳香物質に偶然火を点けることであったと想像されている。
 香りはシルクロードを通して日本に伝わったとされ、日本書紀には、推古三(595)年、漂着した流木が天皇に献上され、摂政・聖徳太子が、これは稀有の至宝「沈香」であると教えた逸話が残っている。
 平安時代には貴族の間で香り遊びなども行われるようになり、室町時代に、一定の作法に従って香を鑑賞する「香道」が興り、日本独自の発展をした。
 江戸時代に入り線香が製造され、香道では、二種類以上の香木による複雑なゲーム・組香が考案され、源氏香や競馬香、宇治山香も始まった。また、明治時代になると西洋から香水が入り、流行した。
 現代では科学的効能も考慮した、癒しやリラクゼーションなど多岐に渡った香り文化が花開いている。
 香は現在、暮らしに欠かせない彩りとして、広く浸透している。
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2007/11/16


【秋・龝】 Shuu Autumn

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 この字は「あき」という季節の、古今変わらない特長である実りと収穫をあらわし、それが禾偏(のぎへん)に反映されています。偏以外の部分は害虫を焼くことを示しています。
 本来の字形では火が下にあります。火を幼虫、または虫卵に直接あてるということを意味するリアルな位置です。甲骨文にはじめて本来の字形が見られます。正字の「龝の龜の下に灬(烈火)がある字」は今「異体字」とよばれるようになりましたが、実は本来の意味をもっとはっきり表しているのです。常用漢字の「秋」では要素の相互関係がわからず、「害虫を焼く」という火の役割が一切見えない省略形になってしまいました。正字では、灬(烈火)は適当に虫の下の部分に置かれています。
 殷の時代に農業はすでにかなり発達し、すでに肥料として灰と糞が利用されていましたが、ズイ虫やイナゴ(稲子)の害も無視できない存在でした。十分に成長した虫は逃げますから、火を当てて焦がしたのはむしろその稲・穀物に付着している動けない虫卵でしょう。そして正字の字形にある虫(龜)にはある象徴的な意味が生じました。そこには、季節の儀礼との深い関係があったのでしょうか。
 
■ 秋・甲骨文(こうこつぶん)
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2007/11/14


京都祇園 Kyoto-Gion 

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 京都祇園(きょうとぎおん)は、京都府京都市東山区近辺の、八坂神社の門前町として栄えた花街である。
 鴨川から八坂神社までの四条通沿いに発達した場所で、かつては祇園門前町として参拝人目当ての水茶屋が軒を並べ、遊里として島原をも凌ぐほどに発展していた。
 京都の代表的な繁華街であり、芸妓・舞妓がいる事や劇場、茶屋、料亭、バーなどが並び、格子戸の続く家並みには昔日の風雅と格調が偲ばれる。
 観光客にも大変人気で、花見小路や新橋通りの石畳と通り沿いの町屋の風景は、とても現代とは思えない、幻想的で昔懐かしい情緒を感じさせてくれる町並みを形成している。
 京都祇園は、時代の流れを忘れさせる、雅で粋な場所である。
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2007/11/8


弓浜絣 Yumihama-gasuri 

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 弓浜絣(ゆみはまがすり)は、鳥取県西部の弓ヶ浜地方に伝わる綿織物で、主な製品に着物地、座布団、のれん、袋物などがある。昭和五〇(1975)年九月、通商産業大臣(現経済産業大臣)より伝統的工芸品の指定を受けた。
 弓ヶ浜半島で弓浜絣の原料となる綿花の栽培が始められたのは江戸時代前期。この半島は「浜の目」と呼ばれ、そこで産出する綿は自家用衣料として綿布に織られていた。その後、藍玉問屋が設けられたことをきっかけに、江戸時代後期には藍の栽培が進められ、米子や弓ヶ浜あたりで「浜の目絣」「浜絣」と呼ぶ絵絣が、農家の婦女子の手によって織られるようになった。明治時代中期に全盛を迎えるが、洋式紡織業の発達に押され衰退。現在は少数の伝統工芸士らによって技術・技法が継承されており、民芸的なあたたかい味わいのある綿織物として異彩を放っている。
 弓浜絣は長年の使用にも耐え、吸湿・保温性に富み、日本の気候風土によく合う。パターン化された柄は線の表情が豊かで、情緒がある。
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日本の美意識。

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