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2007/9/25


御火葬塚 Go-kasou-zuka Gokasozuka (Cremation Mound)

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 御火葬塚(ごかそうづか)は、島根県隠岐郡海士町中里にある、後鳥羽上皇を火葬にして埋葬した場所である。
 鎌倉時代の承久三(1221)年に、承久の乱にて鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた後鳥羽上皇は、隠岐に配流されて海士の源福寺で18年を過ごし、延応元(1239)年、六〇歳で失意のうちに他界した。
 後鳥羽上皇の遺体は源福寺の勝田山で荼毘に付され、遺骨は一部京都に持ち帰られ、他は源福寺北部の丘陵であるこの地に埋葬されて廟殿が建てられた。その山稜が、現在の御火葬塚である。
 隣接地には後鳥羽上皇を祭神として祀る隠岐神社が建っており、神社前の歴史民俗資料館には上皇にちなむ品々が陳列され、承久の変の歴史に触れる事が出来る。
 御火葬塚は、鎌倉の昔が偲ばれる史跡である。
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2007/9/19


一乗院跡 Ichijou-in-ato 

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 一乗院跡(いちじょういんあと)は、鹿児島県南さつま市坊津町にある寺跡である。県の文化財に指定されている。
 敏達天皇一二(583)年、百済の僧・日羅が仏教弘布のため建立したのが一乗院であり、その末寺は薩摩大隅の国内四七ヶ寺、坊津でも一八ヶ寺あったと言われる。
 日羅上人は自ら仏像三体を刻み、上中下の三坊舎を設けて安置した。坊津の名称は、これに由来する。
 長承二(1133)年、鳥羽上皇により上皇の願所となり、「如意珠山一乗院」の称号を賜る。
 延文二(1357)年に、成円上人が寺を島津氏の協力を得て中興し、天文一五(1545)年には後奈良上皇の願所となった。
 しかし明治二(1869)年、廃仏毀釈によって廃寺となり、現在は仁王石像一対と歴代上人の墓が残るのみとなっている。
 一乗院跡は、古の繁栄が偲ばれる史跡である。
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2007/7/4


三船祭 Mifune-matsuri 

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 毎年5月の第3日曜日、渡月橋上流の大堰川(おおいかわ)の川面に、平安時代が再現されたかのような雅な御遊びが繰り広げられる。車折神社(くるまざきじんじゃ)例祭の延長神事・三船祭(みふねまつり)である。
 竜頭船、鷁首船(げきすぶね)など約20数隻を従えた御座船がゆるゆると流れを漕ぎ上がり、舞踊、献茶、小唄、尺八などの諸芸が奉納される。また扇流船からは色とりどりの扇を川面に浮かべる「扇流し」が行なわれ、新緑の映える大堰川に華やかな彩りを添える。
 この祭りは、昌泰元(898)年、長月二一日、宇多上皇が嵐山に御幸の折、大堰川で御船遊びをなされたことが始まりとされているが、車折神社が昭和三年の御大典を記念し、故事に則って「三船祭」を創始、以降、5月14日の例祭の延長神事として行なわれるようになったもの。
 「三船」の名の由来は、白川天皇が御舟遊びをされた折、和歌・漢詩・奏楽に秀でた者を3隻の舟に乗せて従えたところからその名がついたとされている。
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2007/5/15


切目神社 Kirime-jinjya Kirime Shrine

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 「熊野信仰」の修験道として有名な熊野九十九王子中、藤白、滝尻王子などともに最も有名な王子社である。
 ここの神霊は殊に霊験あらたかとされ、海岸の方を向いて祀ると「沖の走り舟を止める」ということで、ご神体は裏向けに祀られているという。また宮参りの際は、社殿の裏側から参拝し、また元旦の初詣のときには「裸」で、どんな親しい人と出会っても挨拶をせずに「無言」で詣でるのが習慣だったとか。
 平安時代から鎌倉時代にかけての300年間は特に熊野詣でが盛んで、天皇、上皇、法皇、文人墨客は必ず参詣し、御所御殿は皇族の宿泊所となった。
 境内にある古木「ホルトノキ」は樹齢300余年とされ、県指定文化財となっている。
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2007/5/8


龍河洞 Ryugatou Ryuga-do Cave

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 高知県三宝山の中腹にある石灰洞穴。秋芳洞、龍泉洞と並んで日本三大鍾乳洞ともいわれる。
 西本洞,中央洞,東本洞の三洞を中心に24本の支洞が複雑に連接した迷宮型の鍾乳洞である。その総延長は、4000mにも達する国内屈指の大鍾乳洞で、この内、1000mが観光洞として公開されている。
 洞の入口には竜王神社があるが、ここは、約770年前の承久の乱(1221年)の後、土佐に配流となった土御門上皇が、この鍾乳洞に入った時、一匹の錦の小蛇が現れたので、その霊を祭ったという伝説がある。
 三宝山の南を流れる谷川が、約60mの落差で洞穴に流れ込み、 洞内では、その流れがつくる大小20の滝が照明に照らし出されている。ここでは、弥生時代の遺跡も発見され、2000年前の弥生式土器(神の壺)も有名である。
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2007/5/1


城南宮 Jyounan-guu 

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 城南宮のある鳥羽の地は、平安京の南にあり、平安京の表玄関に当たる交通の要衝である。
 平安京に都が定められるにあたり、国常立尊(くにとこたちのみこと)・八干矛神(やちほこのかみ(おおくにぬしのみこと))・神功皇后(じんぐうこうご)を祀り都の守護としたことがはじまりである。
 またここは、鴨川に臨む水郷の景勝地で、平安時代の末に白河上皇の離宮が立てられ院政の中心として賑わいをみせた。
 社殿を取り囲むように「楽水苑」と呼ばれる庭があり、伏見の地下水を引き入れた五つの庭で構成されている。
 源氏物語の六條院をモデルにした「春の山」。曲水の宴が催される「平安の庭」。、茶室を配した池泉廻遊式の「室町の庭」。枝垂桜が咲き誇る豪奢な「桃山の庭」。そして院政の時代、城南の地がもっとも賑わった頃を枯山水で表現した「離宮の庭」。
 この庭のあり様は、まさに京に都があった1千年もの間、時代の節目を刻みながら都の歴史を南から見つめた城南の姿である。
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2007/4/26


花見 Hanami 

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 花見は季節の花、特に春の桜を眺め楽しむこと、桜の木の下で行なわれる宴席を指す。
 歴史は古く、平安時代、貴族の間で桜を邸内に植えることが好まれたのが始まりとも言われる。鎌倉時代には後嵯峨上皇が京都、嵐山に桜を植えて花見を楽しんだと言う。
 室町時代には足利氏により花の御所が建造され、四季の花見が行なわれた。この頃から花見は四季の行事として知られ始め、安土桃山時代には豊臣秀吉による大規模な宴席である「醍醐の花見」が開かれた。
 江戸時代に入り、広く庶民にも親しまれるようになり、各地に花見の名所が生まれ、春の名物として楽しまれた。
 現在でも、春先に一斉に咲き誇る桜の下で花見が行なわれている。
 たった一週間という短い時間ではあるが、咲き誇る様、そして美しく儚い散り際は見事なもので、それらを一目眺めようと、毎年多くの人々が桜の名所に集う。
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2007/4/25


三十三間堂 Sanjyuusangen-dou Sanjuusangen-dou Temple

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 「三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)」は、京都府京都市東山区にある仏堂。正式な名称は「蓮華王院本堂」という。管理・所有は「妙法院」である。当初、堂は1249年に焼失したが、1266年に再建された。
 この地には後白河上皇が建てた法住寺殿があった。その時代に平清盛に命じ、1165年、三十三間堂が建てられた。
 名前の由来は、国宝に指定されている本堂の柱間が、「33」であることが起源とされる。柱間の長さは約118メートルで、江戸時代には、「弓術」でこの軒下を使い「通し矢」が行われた。現在でも1月15日にその名残として、本堂西側にある射場で「大的全国大会」が行われる。
 1001体の千手観音像がずらりと並んで祀られており、観光に訪れた人々を魅了する。
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