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2007/10/23


源空寺 Genkuu-ji 

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 源空寺(げんくうじ)は、東京都台東区東上野にある浄土宗の寺である。本尊は、円光大師、阿弥陀如来。
 天正一八(1590)年、道阿霊門上人が湯島に草庵を結び、上人の徳を慕って多くの信者が集まったのが起源とされる。
 慶長九(1604)年、徳川家康によって湯島に寺領を賜わり、堂宇を寄進し、開基された。
 明暦の大火で焼失し、浅草へと移転して諸堂が再建されたが、その後も何度も焼失している。しかし、深い信仰により随時再興され、今日に至っている。
 江戸初期の町奴・幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべえ)、天文学者高橋至時、その弟子で日本初の実測地図を作った伊能忠敬、西洋の画風を取り入れた江戸末期の文人・画家谷文晁など、江戸時代に活躍した人々の墓が多くある。
 源空寺は、江戸時代の文学・科学の空気を伝える古寺である。
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2007/7/26


鹿島御児神社 Kashima-miko-jinja 

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 鹿島御児神社(かしまみこじんじゃ)は、宮城県石巻市の日和山頂上に鎮座する古刹。創建年代は定かではないが、「延喜式」所載の式内社で現存する寺社の中で最も由緒深い神社だという。
 言い伝えによると、その昔関東の鹿島、香取の両神宮の御子、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、鹿島天足別命(かしまあまたりわけのみこと)が命を受けて、奥州へ東夷の征伐と辺土開拓に当たることなり、開拓の先駆者として偉大な功績を残したことから、この鹿島御児神社の祭神として祀られることとなったという。
 以来、当神社は勝利の神として職業繁栄や海上安全、交通安全のご利益があるとして庶民の篤い信仰を集めてきた。
 日和山の頂上にある当神社からは見事な眺望が眼下に広がり、北上川や長浜、雲雀、野蒜海岸はもとより、牡鹿半島や松島一帯を遠望することができる。この素晴らしい眺望を求めて昔より数々の文人墨客が訪れており、境内には芭蕉、宮沢賢治、斎藤茂吉、種田山頭火などの歌碑が建つ。
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2007/6/26


松前 法華寺 Matsumae Hokke-ji 

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 法華寺は、400年の歴史を持つ名刹。北海道松前郡松前町に所在する。
 開基については諸説あるが、正応四(1291)年に日蓮の六門弟の日持上人が海外布教のため渡道した折り上ノ国に一宇を建立したのを、享徳二(1453)年、京都本満寺の僧侶・日尋が松前に移して法華寺と名づけたという説が有力である。
 当寺に安置されている「木造日蓮聖人坐像」は鎌倉時代の作と言われており、北海道の有形文化財に指定されている。また、本堂の7メートル四方の天井に描かれた「八方睨みの龍」は、日本文人画の第一人者、池大雅の作と伝えられている。松前藩主の弟・廣長の念願で招かれた池大雅が寺の裏の林で見た大蛇にヒントを得て描き上げた大作で、どこから見ても龍から睨まれているように見える迫力ある絵である。
 境内には風格のある枝垂桜があり、海を背景とした構図は素晴らしく、見ごろの5月には花見がてら訪れる参拝客で賑う。
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2007/6/6


北黄金貝塚 Kitakogane-kaizuka The Kitakogane Shell Midden

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 北黄金貝塚(きたこがねかいづか)は、北海道伊達市北黄金町にある北黄金貝塚公園内にある国指定の史跡である。
 約6000~5000年前である縄文時代前期の、台地上の貝塚と湧水のある低地帯の水場遺構を中心とした集落遺跡と推定される。
 5つの貝塚と住居跡、お墓等から、多数の縄文人の人骨、石器、土器・骨角器などの工芸品が発掘された。
 特に、儀式の場ともなっていた水場遺構は、このような性格の遺跡としては北海道唯一の貴重なものとされている。
 公園内では、貝塚や竪穴式住居が復元され、古代に触れる場として公開されている。
 毎年9月上旬には、公園内を会場に「縄文まつり」が開催され、多くの人で賑わう。
 北黄金貝塚は、縄文時代を体験出来る貴重な遺跡である。
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2007/5/15


切目神社 Kirime-jinjya Kirime Shrine

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 「熊野信仰」の修験道として有名な熊野九十九王子中、藤白、滝尻王子などともに最も有名な王子社である。
 ここの神霊は殊に霊験あらたかとされ、海岸の方を向いて祀ると「沖の走り舟を止める」ということで、ご神体は裏向けに祀られているという。また宮参りの際は、社殿の裏側から参拝し、また元旦の初詣のときには「裸」で、どんな親しい人と出会っても挨拶をせずに「無言」で詣でるのが習慣だったとか。
 平安時代から鎌倉時代にかけての300年間は特に熊野詣でが盛んで、天皇、上皇、法皇、文人墨客は必ず参詣し、御所御殿は皇族の宿泊所となった。
 境内にある古木「ホルトノキ」は樹齢300余年とされ、県指定文化財となっている。
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2007/5/7


唐人駄場 Toujindaba Tojin Daba

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 唐人駄場とは、足摺半島の臼碆(うすばえ)近くの山の頂にある、今から6000年から7000年前(縄文時代初期から弥生時代) の石器や土器片が出土している場所である。
 出土数は四国一と云われ、 周囲に点在している石は円形に配置され、いわゆる「ストーンサークル」ではないかと研究が進められている。
 又、そこから200m上には巨石群があり、唐人石と云われ、巨石が積み重なった造形物が集まっている。重なった石の下には縄文人が居住していたと思われる場所がいくつもあり、土器片や石器も数多く出土している。
 「唐人」とは、中国人のことではなく「異人」という意味。駄場とは山頂の平坦な場所のこと。
 長い時間を経て、その目的も利用方法も歴史の彼方になってしまったが、今も縄文の記憶を蘇させられる不思議な空間である。
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2007/4/24


頼山陽居室 RaiSanyoukyo-shitsu 

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 頼山陽居室は、広島県広島市中区袋町にある頼山陽史跡資料館内にある部屋である。国の史跡に指定されている。
 頼山陽は、この居室で名著「日本外史」を草したといわれる、幕末維新に大きな思想的影響を与えた儒学者、文人である。
 山陽は、安永九(1780)年に朱子学者頼春水の子として生まれた。幼くして漢学を修め、天下を憂いて脱藩の重罪を犯して出奔したが、すぐに連れ戻されて邸内の一室に幽閉された。
 居室は、1度は原爆で焼失したが、昭和三三(1958)年に復元・再建された。
 現在は、頼山陽が青少年時代を過ごした屋敷跡に建つ頼山陽史跡資料館内に存在し、山陽の足跡を知る資料や広島近世文化資料をと共に保存、展示されている。
 頼山陽居室は、幕末維新を偲ばれる史跡である。
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2007/4/23


頼惟清旧宅 Raikoresugakyutaku 

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 頼惟清(らいこれすが)旧宅は、江戸後期の儒学者であり詩人としても活躍した文人・頼山陽(らいさんよう)の祖父、頼惟清の旧宅。広島県竹原市に所在する。
 惟清は、染め物屋を営み、惟清の子で「三頼」と呼ばれる俊才たち、春水(しゅんすい)、春風(しゅんぷう)、杏坪(きょうへい)の3兄弟もこの家で生まれ育った。春水は頼山陽の父、春風は後に医者・学者に、杏坪は広島藩の儒者になるなど、3兄弟とも史上に名を残す文人となっている。
 当時竹原の地は、学問・文明が盛んであった。惟清も家業のかたわら、近所の学者や歌人に手ほどきを受けるなど、有力町人の文化活動に積極的に参加、家庭内に学問的雰囲気を作っていたとか。
 建物は安永四(1775)年ごろの建築。本瓦葺き、重層屋根、入母屋造、塗り籠の壁が当時の姿そのままの質実な佇まいを見せている。
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