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2007/12/6


佐波神社三番叟 Sawa-jinja Sanba-sou The Sanbaso Dance at Sawa Shrine

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 佐波神社三番叟(さわじんじゃさんばそう)は、静岡県西伊豆町の仁科に鎮座し、漁の神様を祀って崇神(すじん)天皇から造船の地を賜ったと伝えられる佐波神社において、毎年一一月二日と三日の二日間行われる秋の例祭で奉納される人形浄瑠璃である。
 二日の夜に「日の入り三番」、三日の朝に「日の出三番」が神社境内で奉納される。
 慶長年間(1596~1614)に伊豆金山奉行であり元は猿楽師であった大久保長安によって、周辺地区に人形浄瑠璃がもたらされたといわれ、同社での初演は文政八(1825)年に行われた社殿の大改修を祝って奉納されたものだとされている。
 千歳、翁、三番叟の三体の人形にそれぞれ三人の人形師が付き、太鼓や笛、謡などの奏者と合わせた、総勢二二人によって古式豊かに式三番叟が上演される。
 地元の若衆によって連綿と受け継がれる郷土芸能は、人形に命を吹き込み、見るものを幽玄の世界へと誘ってくれる。
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2007/9/6


盛岡秋まつり Morioka-aki-matsuri Morioka Autumn Festival

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 盛岡秋まつりは、岩手県盛岡市にある盛岡八幡宮で、毎年の九月十四日からの三日間に渡って行われる同宮の例大祭である。十三日には前夜祭も行われている。
 祭りが行われる盛岡八幡宮は、この地を治めた南部家が城下町鎮護のために勧請した、同家の氏神様でもある。
 祭りの興りは宝永六(1709)年、南部藩二十万石の城下町二十三町が完成した折に、各町から一台ずつ山車を出して祝ったのが始まりとされており、この山車行列は今も執り行われ、盛岡市の指定無形文化財にもなっている。
 それら山車の全てが八幡宮からスタートする「八幡下り」や夜に行われる山車大絵巻パレード、八幡宮境内で行われる古式ゆかしい流鏑馬など、三百年間連綿と続く盛岡の秋の風物詩が、三日間にわたって繰り広げられる。
 祭りには欠かせない屋台も参道一杯に立ち並んでおり、南部独特の音頭を取って子供達が練り歩く様をヤキソバを食べながら眺めるのも乙なものである。
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2007/8/20


八幡町打囃子 Hachiman-chou-uchi-bayashi 

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 八幡町打囃子(はちまんちょううちばやし)は、宮城県南三陸町の八幡町で、毎年の七月最終土曜日に催されている夏祭りである。
 同じく南三陸町の志津川湾で行われる「志津川湾夏まつり」の一環として、周辺町村でも各種催しが開かれているが、八幡町の打囃子もその一つ。
 昭和四十年代中ごろに、地元にあった八幡神社が、持ち主の要望で返還される事となり、地元での各種祭事の開催が危ぶまれた時期があったものの、その後に結成された八幡町打囃子保存会の有志の手により、連綿と今に受け継がれていくこととなる。
 そのスタイルは同じ町内にある入谷八幡神社でも行われている打囃子と衣装や踊り、獅子が共に舞う点などで非常に似ており、同じく八幡神を祭る神社として、そういった祭事の点でもつながりがあったのではないかといわれている。
 古来よりの伝統は、今の世でも困難を乗り越え、地元の絆をさらに強くする楽しい伝統として、受け継がれている。
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2007/7/19


唐戸山神事相撲 Karatoyama-shinji-zumou Karato-yama Shinji Sumo

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 唐戸山神事相撲(からとやましんじずもう)は、石川県羽咋市の羽咋神社(はくいじんじゃ)で毎年九月二五日に行われる伝統行事である。
 日本最古の相撲としても知られており、その歴史は第十一代垂仁(すいにん)天皇の時代にまで遡ることになる。
 垂仁天皇が日本の歴史上初めて、野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹴速(たいまのけはや)に相撲をとらせたといわれており、その皇子である磐衝別命(いわつくのわけのみこと)が現在の羽咋市で若者たちを集めて武勇を養い、また力の長けた人を招いて相撲をとらせていたことから、皇子の命日である九月二五日に行われるようになったのが始まりといわれている。
 以来、約二千年もの長きに渡って連綿と継承され、神事が行われる日には北陸各地から力自慢の若者達が唐戸山に集まり、相撲をとって皇子の神霊をお慰めする。
 「水なし、塩なし、まったなし」の掛け声とともに二千年にわたって続けられてきた神事は、もはや神話の一部といっても過言ではないかもしれない。
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2007/6/6


北海道 常呂遺跡 Hokkaidou Tokoro-iseki 

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 北海道の常呂遺跡(ところいせき)は、北海道北見市常呂町栄浦にある遺跡である。国指定の史跡となっている。
 オホーツク海岸に沿って、常呂川河口からサロマ湖東部に至る、湖岸砂丘上に営まれた約1800年前の集落跡の総称であり、栄浦には「ところ遺跡の森・ところ遺跡の館」という、整備された資料館が存在する。
 遺跡近辺は、カシワ、ナラを中心にした落葉広葉樹の森林に覆われている。
 その中に、約1000年前の擦文文化、約1800年前の続縄文文化、約4000年前の縄文文化の竪穴式住居跡が138軒発見されており、擦文4棟、続縄文1棟、縄文1文の復元住居がある。
 北海道の常呂遺跡は、縄文時代からアイヌ文化期までの遺跡が連綿と続く、全国有数規模の一大集落遺跡群と言える。
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2007/5/10


山中漆器 Yamanaka-shikki Yamanaka Lacquer Ware

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 四百年の歴史を持つ山中漆器。石川県加賀市に今でも連綿と受け継がれている伝統工芸品だ。
 安土桃山時代の天正年間(1570〜1592年)。越前から木地師が移住してきて、轆轤(ろくろ)挽き物の技術を伝えたのがはじまりとされる。現在では、江戸期に導入された「塗り」や「蒔絵」の技術を取り入れ、茶道具を中心とした塗り物の産地として有名だ。
 山中漆器の最大の特徴は、白木地を、鉋(かんな)で回転させながらくり抜く轆轤(ろくろ)挽き製法。お椀や茶托などの丸い茶器の製造を得意とする。そのほか、材質・木目を活かした「加飾挽き」も特徴のひとつ。
 絵付けを行わない「轆轤(ろくろ)挽き物木地」は、器の形そのものが意匠である。そこには1点のゆがみも許されない。山中漆器には、見た目の素朴さからは想像もつかないほどの、木地師の技が隠されている。
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2007/4/4


因久山焼 Inkyuzan-yaki 

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 古くは奈良時代から、鳥取県久能寺周辺で始まったとされる「因久山(いんきゅうざん)焼」。江戸時代には、鳥取池田藩の御用釜として愛用された。
 「因久山焼」の名は、窯元が置かれていた、久能寺の山号である因久山にちなみ、池田藩からこの名を拝領したという。現在は窯元も芦澤家1軒のみとなっており、320年余の歴史が連綿と受け継がれている。
 最大の特徴は、淡い青色と乳白色の流れ模様。地元の土、わら灰などの釉薬(うわぐすり)を使用し、伝統的な素朴な美の中にも、格調高い独特の味わいを生んでいる。御用室の流れを汲んでいるため、華道の花瓶や一輪挿しなどに名器が多い。現在では、湯飲みや徳利など、手ごろな価格のものも多く、多くの人々に愛好されている。
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2007/3/16


姫路張子 Himeji-hariko Himeji Hariko

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 張子ははりぼてとも言い、和紙を重ねて作るもの。兵庫県姫路市では、明治時代初期から「姫路張子」という伝統工芸の技術が連綿と守り育てられている。
 姫路張子は、縁起物のお面やおもちゃなど、すべて手仕事で作られている。張子自体は室町時代に中国から伝来したとされ、不要な和紙が豊富になった江戸時代に全国の城下町で、張子人形や玩具が造られるようになったという。姫路においては明治初期。創始者は豊岡直七と言われており、現在四代目の松尾隆氏が子息とともに伝統を受け継いでいる。
 現在、姫路張子は縁起物として家の棟上げ、各地方の祭りや各行事などに使われているほか、郷土玩具愛好家に好まれ、装飾用に買い求められている。
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