NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/11/9


佐原 伊能忠敬旧宅 Sawara InouTadataka-kyuutaku 

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 佐原の伊能忠敬旧宅(さわらのいのうただたかきゅうたく)は、千葉県香取市佐原にある建築物である。屋敷内の土蔵も含めて、国の史跡に指定されている。
 伊能忠敬は、隠居後五〇才を過ぎてから江戸に出て幕府天文方高橋至時の門に入り、西洋天文学・西洋数学・天文観測学・暦学等を学び、幕府の命令で五五~七一歳まで、一七年間全国各地を測量し、大日本沿海輿地全図を完成させた。
 旧宅は、伊能忠敬が三〇年余り過ごした言われる家で、商家造りの瓦葺き平屋建て、表の店舗と奥の母屋からなり、店舗は醸造業の倉庫を改造したもので、土間・帳場・居室・台所等が存在する。
 母屋は、寛政五(1793)年、忠敬が四八才の時に自身の設計により作ったものとされる。
 伊能忠敬旧宅は、五〇を過ぎてから新しい道を切り開いた努力家・忠敬の苦労と人柄が偲ばれる建築物である。
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2007/6/27


梅村庭園 Umemura-teien 

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 梅村庭園(うめむらていえん)は、北海道二海郡八雲町末広町の八雲町公民館横にある庭園である。
 昭和五(1930)年、故・梅村多十郎が明治末期から造成してきた、池の周囲に自然景観を取り入れ築山、枯山水、自然林に模した樹木などが巧みに配置されている、北海道では珍しい池泉回遊式庭園が完成した。
 昭和五八(1983)年、町指定文化財となる。平成一三(2001)年、町が購入して整備を進め、平成一五(2003)年秋、開町125周年を記念して、土蔵と離れをつなぐ形で休憩施設「梅雲亭」が完成するとともに、蔵と離れの一般公開を開始した。土蔵内部には梅村家関連の資料が展示されている。
 梅村庭園は、園内にツツジや桜、紅葉などが植えられ、四季折々を体感できる貴重な施設である。
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2007/6/6


太刀川家住宅 Tachikawa-ke-juutaku 

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 太刀川家住宅は、一代で財をなした太刀川家初代当主が明治三四(1901)年に建てた、レンガ造り2階建ての関西風商家。北海道・函館市に所在する。
 初代太刀川善吉は、米穀店を営むかたわら、持ち船筑紫丸で回漕業に乗り出し、巨額の富を築いたという。
 大火の多かった函館らしく、防火用にレンガ壁の上から漆喰を塗ってある。また、底、軒天井、持送り、腕木はモルタル漆喰の塗り込め仕上げがされているほか、2本の鋳鉄柱を配置し、その上に三連のアーチを設けるなど、洋風建築の意匠を取り入れている。 
 建物内部は直径60cm以上の柱の梁があり、木組みは豪快そのもの。土蔵造りの倉も風格がある。店舗と仏間を仕切る化粧板はケヤキの一枚板に輪島塗を施しており、建築学者もうならせるほどの立派なものである。
 太刀川家住宅は、昭和五二年に国の重要文化財に指定された。
 
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2007/6/1


旧有壁宿本陣 Kyu-arikabesyuku-honjin Old Arikabe-shuku Honjin

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 五街道の一つ「奥州街道」の金成宿(かんなりしゅく)と一の関宿の中間に位置する「有壁宿」は、元和五(1619)年に創設され、以来参勤交代の際には、松前・八戸・盛岡・一関の藩主や各藩重臣が宿泊する宿であった。
 現在残る有壁宿の本陣は、代々、佐藤家が検断を勤め、同家に伝わる文書によると江戸中期の延享元(1744)年に火災にあい、現在の場所に移してその時、再建されたものである。以来今日まで災禍を免れ貴重な資料とともに当時の建物が残されている。
 御成門、車寄せ、中座敷などの遺構を保ち、「宿駅検断文書」、「本陣宿泊文書」、「佐藤家内文書」などの重要な歴史資料が残されている。敷地内には土蔵や馬屋が残っていて、往時の武家社会の面影を伝えている。
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2007/5/24


国森家住宅 Kunimori-ke-jutaku 

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 国森家住宅(くにもりけじゅうたく)は、山口県柳井市に存在する油商の家である。
 柳井が近世商業都市として繁栄した18世紀後半に建てられたもので、江戸中期の商家の構えの典型として国の重要文化財に指定されている。
 間口8・5m、奥行16・5m、妻入り、本瓦葺の屋根に、入母屋土蔵造りの2階建てで、1階正面には必要に応じて全開できる「蔀帳(ぶちょう)」と呼ばれる、収納と機能性を兼ね備えた板戸が用いられている。さらにその前には一本引きの土戸があり、火災のときにはこの土戸をはめて戸と戸の間に味噌を塗り密閉、類焼防止が出来るなど、生活の中での知恵を生かした見事な建築を見ることが出来る。
 日本の建築文化の粋や意匠に触れることの出来る、貴重な文化財である。
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2007/5/18


岐阜 宗祇水 Gifu Sogisui 

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 「宗祇水(そぎすい)」は、全国名水百選の一番目に選定された名水。石畳の路地と、土蔵の続く日本の町並みが残る郡上八幡を流れる。
 「宗祇水」の名の由来は、連歌の宗匠として知られる飯尾宗祇が、文明年間(1469~1487年)にこの泉と草庵を結んで、清水を愛用した事から名付けられた。1972年に町の史跡文化財、1974年に岐阜県の史跡文化財の指定を受けた。
 夏場などは水量に多少変化が見られるが、水質などは選定当時とほぼ変わらず、冷たく清らかで良い状態を保っている。
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2007/5/11


石谷家住宅 Ishitani-ke-jutaku The Residence of the Ishitani family

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 石谷家住宅は、鳥取県八頭郡智頭町にある歴史的建造物。江戸時代から続く名門・石谷家の旧宅だ。
 智頭町は、江戸時代に鳥取県内最大の宿場町として栄えた場所。石谷家の住宅は、この地で最も大規模な建物であった。石谷家は、広く地主・山林経営を行い、石谷伝四郎の代では、政治家として明治二八年から大正十二年まで国政にも携わっていた。
 代々伝わるこの石谷の家を大正八年から十年かけて改築し、大規模な木造家屋に仕立てたのが、現在の「石谷家住宅」である。
 敷地面積は約1万平方m、部屋数は40室、土蔵は7を数える。主屋は武家屋敷風の構え、主屋の庭側座敷は主人居室で書院造り。各座敷からは池泉式庭園が眺められる。様々な様式が調和した豪壮な邸宅は、和風建築の傑作として国の有形文化財および智頭町の文化財に指定されている。
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2007/5/9


若桜 蔵通り Wakasa kuradoori The Storehouse Street in Wakasa

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鳥取県の若桜町はかつて、因幡と播州を結ぶ城下町・宿場町であった。正治二(1200)年に矢部氏が鶴尾山に鬼ヶ城を築いて以来、城下町として繁栄したが、一国一城制で廃城となってからは、若桜街道の宿場町として栄えた。
 その名残をとどめるのが「蔵通り」。旧家の白壁土蔵群の通りが残っており、往時の若桜宿の繁栄ぶりが偲ばれる。
 若桜宿はたびたび大火に見舞われたため、明治十八年には、この通りでは土蔵以外の建物を建てることが禁止された。そのため、このような土蔵群が形成されたのである。
 「水にせかれて、ちょいと川に棲む」と野口雨情が若桜小唄に歌ったようにあちこちで清流の音が聞こえるのも風情がある。徒歩15分程度で一周でき、情緒ある格好の散歩道となっている。
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