NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/11


佛山寺 Bussan-ji 

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 大分県由布院の佛山寺(ぶっさんじ)は、明治の廃仏毀釈が行われるまでは宇奈岐日女神社(うなぐひめじんじゃ)またの名を六所宮(ろくしょぐう)と一体になって栄えた古刹である。
 本尊は由布岳の観音菩薩。かつて湖であった湯布院を盆地に変えたと伝えられる宇奈岐日女と習合していた。
 寺伝によると康保年間(964〜968年)、聖空上人の開山と云われ、当時の堂宇は由布岳の中腹にあり天台宗であった。その後、江戸時代に臨済宗となって現在の地に移転した。
 全盛時には10ヶ所の末寺を有した湯布院を代表する中心的寺院で、今も境内には青面金剛塔や金光明王塔が竹林や大杉の合間に建ち、山門、本堂、庫裡がすべて落ち着いた雰囲気を保っている。平成六(1994)年の火災で本堂を焼失したが、再建され現在に至る。
 また、500メートル程離れた金鱗湖に浮かぶ鳥居はこの佛山寺にあったもので、廃仏毀釈に伴い天祖神社付近の湖面に移されたものである。
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2008/8/22


樺崎砲台跡 Kabasaki-houdai-ato The Remains of Kabasaki Battery Fortress

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 樺崎(かばさき)砲台跡は安政ニ(1855)年、宇和島湾の守りとして、山を切り海を埋め立てて建てられた砲台跡で、当時宇和島に来ていた医師であり幕末から陸軍指導者として活躍した大村益次郎、通称村田蔵六の設計・考案とされている。
 海外に門戸を開いた「安政の開国」によって、瀬戸内海にも諸外国の船が頻繁に入港するようになると共に、県内の各藩は海岸防備の必要性に迫られた。なかでも宇和島藩は、藩主伊達宗城を中心に富国強兵策を推進し、軍備の近代化に力を注いだという。そんな中この洋式砲台が造られた。
 総面積一五三坪、器械蔵二二坪。海を埋め立て台場を築く工事はかなり難航したという。敷地には砲眼・火薬庫などの施設と青銅製大砲五門が設置された。
 砲台跡は昭和六〇年代までは海だったという宇和島港に立つ、宇和島市立歴史資料館の隣に保存されている。同資料館の建物も元警察署で明治建築の味わいのある建物である。
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2008/8/4


明治川神社 Meijigawa-jinja 

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 明治川神社は明治一八(1885)年、明治用水建設に貢献した人たちを守護神として建立された神社である。
 明治用水は、ため池の水に頼るしかない村の枯れた土地へ、川の水を引き込み、大規模な耕地拡大を狙った計画で、碧海郡和泉村の豪農、都築弥厚(つづきやこう)が幕府に嘆願書を出したことが発端だとされる。ところが、農民たちの理解がなかなか得られず、志半ばで弥厚は亡くなってしまったという。
 明治期に入り、岡本兵松(ひょうまつ)、伊豫田予八郎(いよだよはちろう)らの手によってその開発計画が再燃した。そして明治一二(1879)年にようやく着工、翌年見事に第一次工事が完成し、その後枯れた台地が緑の台地に変わっていったのである。
 都築弥厚、岡本兵松、伊豫田与八郎らはこうした功績を称られ、今でも水の神様として土地の人々に崇められているという。
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2008/7/17


札幌市時計台 Sapporo-shi-tokeidai Sapporo Clock Tower.

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 札幌市の時計台は、札幌農学校の頃、生徒の心身を鍛え兵式訓練などに使う目的で「演武場」(体育館)として1878年に建設された。今では「時計台」の愛称で知られ、多くの人に親しまれている。
 正式には「旧札幌農学校演武場」という名称で、北海道大学の前身である札幌農学校の一施設であった。建設当初は時を知らせる鐘楼だけで、時計は設置されていなかったが、1階を研究室として利用していて振動で実験に不具合が出た事から1881年に設置された。1888年には札幌標準時の時計に指定されている。
 1903年に農学校が現在の北海道大学の場所に移転し、そのままにされていたが、1906年に札幌区が買い取り、解体せずに曳家で現在地に移転した。
 札幌市民に守られてきた時計台は、1970年に国指定重要文化財に指定され、1995年から4年間に亘って修復工事が行われて、展示室や貸しホールとして活用されている。
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2008/4/25


萬祥山焼 Banshouzan-yaki 

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 萬祥山焼(ばんしょうざんやき)は、島根県出雲市大津町に伝わる工芸品である。県の伝統工芸品に指定されている。
 元々、大津地区は地元産の良質な粘土を利用した瓦などの窯業が盛んであった。
 明治五(1872)年頃、日野源左衛門(ひのげんざえもん)が、地元の豊富な粘土を使用して焼いたのが始まりとされる。
 開窯当時は、来原焼(くりはらやき)と呼んでいたが、後に大津町長の森広操軒(もりひろそうけん)の命名で、萬祥山焼と呼ばれるようになった。
 当初は日用雑器が主だったが、明治二五(1892)年頃から茶の道具類が主となったという。他に、酒器や花器なども製作されている。
 その特徴は青銅、伊羅保釉(いらぼゆう)などが使われる事とされている。
 萬祥山焼は、明治以来の伝統を今に受け継ぐ民芸陶器である。
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2008/4/9


都城大弓 Miyakonojou-daikyu 

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 都城大弓(みやこのじょうだいきゅう)は竹製の弓道具で、江戸後期には盛んに作られていた記録が残っている。明治時代に入り、鹿児島県川内地区から楠見氏親子が移住し、多くの弓作りの職人を養成。都城を大弓の産地に押し上げた。
 櫨(はぜ)や真竹といった原材料に恵まれたこともあって、昭和初期には海外に輸出するまでに成長したが、第二次大戦後は大弓の製作が禁じられ、徐々に衰退して行った。しかし、現在も都城は日本唯一の竹弓産地として、全国生産量の九割を占めている。平成六(1994)年四月、経済産業大臣より伝統的工芸品に指定された。
 材料の切り出し、油抜き、自然乾燥、煙によるいぶし、芯竹の火入れ、各部の削り、弓の張り込み、握束など、二百を超える工程のほとんどを手作業で行い、長い年月を費やして一本を完成させる。
 最近は後継者不足に悩みながらも、新築時に魔よけの縁起物として床の間や玄関に飾られる破魔矢(はまや)の製作など、新しい取り組みも行われている。
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2008/4/8


津軽三味線 Tsugarujamisen 

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 津軽地方には、日本の民芸音楽である「津軽三味線(つがるじゃみせん)」が伝承されているという。津軽三大民謡(津軽三ツ物)として「津軽じょんから節」「津軽よされ節」「津軽小原節」が有名だとされる。
 以前は、「坊様三味線(ぼさまじゃみせん)」と呼ばれ、目の不自由な男の人が、三味線を弾き鳴らす門付け芸人のことを指していたといわれる。門付けとは、生活の為に村々をまわり、三味線を弾いてお米をもらうことで、これが津軽三味線の始まりだといわれている。明治の初めに、金木出身である「仁太坊(にたぼう)」という盲目の三味線弾きが現れ、後の津軽三味線を作り上げたという。
 津軽三味線の特長は、音量が大きく撥(ばち)を叩きつけるように弾くことである。弾き手は型にとらわれずに自由にアドリブで演奏し、そのスタイルははジャズにもよく似ていると言われる。
 また、三味線は大きく胴と棹(さお)に分けられ、種類は太棹・中棹・細棹とあるが、津軽三味線は棹の部分が太く重いことで知られる。
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2008/3/18


板かるた Ita-karuta 

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 板かるたとは、その名の通り、板にかかれたかるたのことである。
 始まりは江戸時代に福島県会津藩の武士たちが内職で作成していたという説が有力であるが、普及させたのは明治以降の北海道の屯田兵たちである。
 屯田兵とは厳寒の北海道で軍隊としての規律を守りながら開拓作業にも従事していた人々である。激しい環境と労働下、お祭りや相撲の地方巡業などの数少ない娯楽の中で板かるたも貴重な楽しみの一つであった。
 板を使っているのは、北海道では紙は貴重で手に入りにくかったことと、板かるたの材料となる朴(ほお)の木や白樺の木が群生していたためである。
 内容も変わっており、百人一首の場合、通常は上の句を読み上げて下の句の書かれた札を取り合うのが、板かるたの場合は下の句を読み上げ、下の句の書かれた札を取り合うのである。そこには、教養よりもスピードと豪快さが要求された。そのため下の句かるたともいわれている。
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