NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/6/12


蚕の社 Kaiko-no-yashiro Kaiko no Mori

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 京都府は太秦にある蚕の杜(かいこのもり)は、正式名称を木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)といい、木の嶋神社(このしまじんじゃ)と呼ばれ、親しまれている。
 いわれは古く、推古一二(604)年の創建とされている。渡来人の秦氏(はたし)が養蚕と織物の神を祀ったのがはじまりといわれており、摂社である養蚕神社(こがいじんじゃ)が名前の由来とされている。幾たびの戦火に伴い社殿は焼失、現在の社殿は明治以降に再建されたものだという。
 社殿の西側に元糺の池(もとただすのいけ)という湧水池がある。その池の中央に、三柱鳥居(みはしらとりい)と呼ばれる、京都三鳥居の一つとされる珍しい鳥居がある。柱が三本あり、上から見ると三角形をなし、中央には組石で神座(かみぐら)が作られている。起源は不明だが、現存のものは天保二(1831)年に再建されたものだといわれている。
 蚕の杜は、現在でも製糸機織業者の信仰が篤く、町の氏神様としても親しまれている。
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2008/5/26


阿豆佐味天神社(立川水天宮) Azusamiten-jinja(Tachikawa-suitenguu) 

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 立川市砂川にある阿豆佐味天神社(あずさみてんじんじゃ)は寛永六(1629)年、現在の西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷、殿ヶ谷村・阿豆佐味天神社より勧請され、この地区の新田開発の守り神として創建された神社である。
 医薬神として知られる少彦名命(すくなひこなのみこと)と天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祭神としている。
 総けやき造りの本殿は、元文三(1738)年創建の市内最古の建築物といわれ、有形文化財に指定されている。
 昭和三六年(1961)年、砂川五番より遷座された水天宮は「立川水天宮」と呼ばれ、安産の守り神として篤い信仰を集めているという。
 境内には、砂川地区の養蚕業を長年見守ってきた蚕影神社(こかげじんじゃ)がある。最近では、祈願すると行方不明になった猫が無事に帰って来る「猫返り神社」として、訪れる愛猫家も多いという。
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2007/12/26


秩父銘仙 Chichibu-meisen Chichibu Meisen

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 秩父銘仙(ちちぶめいせん)は、埼玉県秩父市で古来より生産されている知々夫絹を用いた絹織物である。
 崇神天皇の御代(紀元前149~紀元前29)に、知々夫彦命(ちちぶひこのみこと)が周辺住民に養蚕と機織の技術を伝えたことがその起源といわれる、大変古い歴史を持つ織物である。
 元来、屑繭や玉繭から採取した太い糸を緯(よこ)糸に用いた丈夫な織物で、養蚕を営む人々の自家用として織られていた。
 ただ、そのとにかく丈夫なことや平織りで裏表がなく、表が色あせても裏を使って仕立て直しができるという特徴などが庶民の間でもてはやされ、発展していくこととなる。
 武士の間でも大いに珍重され、古来よりの伝統を受け継ぎつつ、品質の良いものへと発展を遂げ、明治から昭和初期に掛けて最盛期を迎えることとなった。
 その豊かなデザイン性で、明治や大正の先人達の心を射止めた織物は、今も伝統を守りながら大事に織り上げられている。
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2007/11/8


置賜紬 Oitamatsumugi 

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 置賜紬(おいたまつむぎ)は、山形県米沢市、長井市、西置賜郡白鷹町に伝わる伝統民芸品である。国の伝統工芸品に指定されている。
 置賜紬の始まりは、8世紀初めに養蚕の発達とともに興った。江戸時代初めに領主・上杉景勝が奨励して体制が整い、江戸時代中期、米沢藩中興の祖・上杉鷹山が殖産興業の一環として奨励した事によって本格的に発達した。
 置賜紬は米沢市の米沢草木染、長井市の長井紬、白鷹町の白鷹紬などの地区で生産されている織物全ての総称で、いずれも糸を先に染めてから織る先染めの平織(ひらおり)が特徴とされる。
 現在では紅花を代表とする草木染め、自然の材料を用いたぜんまい織やしな布など多様な織物が生産されており、手作りの味と少量生産を旨とし、普段は店頭では販売されていない。
 置賜紬は、長い歴史を誇る伝統の染め織物である。
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2007/8/27


群馬 桐生織 Gunma Kiryuu-ori Kiryu Textiles

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 群馬の桐生織(きりゅうおり)は、群馬県桐生市に伝わる伝統的な織物である。
 800年頃、宮中に仕える白滝姫が桐生の山田家に嫁に来て、村人に養蚕や機織りを伝えたのが始まりと伝承されている。
 鎌倉時代末の新田義貞の旗揚げをはじめ、関ヶ原の合戦では、徳川家康が桐生の白絹の旗を用いた事などから、桐生織物はその名を全国的に高めることになった。
 18世紀中頃、京都から技術を導入して発展し、19世紀前半には幕府の保護もあって高級織物を生産するようになり、今日につながっている。
 西の西陣、東の桐生とも言われ、昭和初期までは日本の基幹産業として高級品織物を中心に、繁栄してきた。
 現在、和装離れから産業として苦境に立たされているが、先端科学技術の導入など、今も努力を怠らずに独自の新製品開発を続けている。
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伊勢崎銘仙 Isezaki-meisen Isezaki Ikat

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 伊勢崎銘仙(いせさきめいせん)は、群馬県伊勢崎市に伝わる織物である。別名、伊勢崎絣。
 伊勢崎では古くから養蚕が盛んで、絹織物の始まりは紀元前とも言い伝えられるが、産地が形づくられたのは、17世紀後半になってからである。
 江戸時代に、緻密な織物を「目専」と言ったが、これが語源となって、その後「銘仙」と呼ばれ、明治時代に東京でも売り出した。
 以後、昭和の時代に大繁盛し、2度ピークを迎えるが、現在は大分落ち着いている。
 その特色は括り絣、板締絣、捺染加工の技法にあり、単純な絣柄から精密な絣模様まで、絹の風合いを生かした手作りの絣として、色々なものが作られている。
 布地は丈夫で柄が多種多様、値段が手頃というのが特徴である。
 伊勢崎銘仙は、今も昔も手作業で造る丁寧・緻密な織物である。
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2007/7/4


養蚕民家 Yousan-minka 

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 あまり知られていない事だが、北海道の東旭川町は、明治末期から大正初期にかけて全道屈指の養蚕地区として知られていた。この頃の養蚕民家(ようさんみんか)を復元したのが、東旭川町瑞穂にある「旧松浦家住宅」である。
 開墾前から野生の桑が多く生息し、養蚕に適していた東旭川町。明治三十四(1901)年頃から、養蚕が盛んであった福島県大田村周辺から団体入植が行われ、副業として大きく発展した。最盛期の大正八(1919)年には310戸にも及んだという。
 旧松浦家住宅は現存する唯一の養蚕民家であり、郷里福島の養蚕民家を模して復元されたものである。
 茅葺の屋根は「片あずま」と呼ばれる大胆なデザインで、寄棟屋根の一部を切り落とし、そこに開口部を設けた造りとなっている。
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2007/6/18


小満 Shouman Shoman

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 小満(しょうまん)は二十四節期の一つで、麦畑が緑黄色に色づきはじめる、五月二一日ごろ。
 この頃には、蚕が桑を盛んに食べ、紅花が盛んに咲き、麦が熟し麦秋となるとされている。
 太陽黄経が60度のときで、万物が次第に成長して一定の大きさに達して来る頃として、暦便覧には「万物盈満すれば草木枝葉繁る」と記されている。
 また、夏の陽気が次第に満ちていくとも言われ、俳句では、夏の季語にも使われる。
 長野県佐久市では、お蚕様の成長、五穀豊穣や商売繁盛を願い稲荷神社の祭りが大正時代から続いており、約500店もの露店や植木市が並ぶ、東信地方最大のお祭りとなっている。
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