NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/2/8


丸毛家下屋敷 Marumouke-shimoyashiki The Marumou Family Lower Mansion

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 城下町・臼杵市のシンボルである「丸毛家(まるもうけ)下屋敷」。江戸後期の建築様式をそのままとどめた上級武家屋敷である。
 丸毛家は、もともと美濃国(現岐阜県)の武士で、明智光秀の家臣であったが、天正十(1582)年の山崎の合戦で光秀が豊臣秀吉に敗れてからは長い間流浪していたという。再び丸毛家が返り咲いたのは江戸時代の寛永五(1628)年。初代臼杵藩主、稲葉貞通が丸毛氏の遠縁にあたることから、臼杵藩の召し抱えとなる。その後明治維新まで、丸毛家は臼杵藩の上級武士として君臨したという。
 丸毛家下屋敷の最大の特徴は、来客用の「表」と、家族の生活の場である「奥」に分けられ、壁によって完全に区切られていることである。部屋だけでなく、玄関も来客用の「表玄関」と家人用の「内玄関」に分けられており、体面を重んじる武家の格式が偲ばれる造りとなっている。
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2007/1/19


玄関 Genkan The Genkan

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 家屋や禅宗の寺院、公共の建物など正面の入り口を玄関という。
 元々は中国『老子』の「玄の又玄なる衆の妙なる門」による語で、日本では鎌倉時代に禅宗で用いられた仏教語。仏教において、寺院に入ることは仏門に入ることであり、真理を意味する「玄」への道となる。故に方丈への入り口を玄関と呼んだ。それが玄関の始まりである。
 平安時代の寝殿造りにおいて、中門廊に車寄せや板扉が作られた。この時、突き出た駕籠を降ろすための低い板床を玄関と呼び、取り次ぎの間を式台と呼んだが、江戸時代になると、全体を玄関と称した。
 庄屋などは役人を迎えるために玄関を作ることを許されたが、通常の民家は許されなかった。明治になり、誰でも玄関を作ることができるようになったが、第二次世界大戦前までは、玄関の格式が残り、玄関は客と主人が使い、家族は内玄関、使用人は勝手口を使った。
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