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2008/9/12


蔵敷高札場 Zoushiki-kousatsu-jyou 

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 蔵敷高札場(ぞうしきこうさつじょう)は、東京都東大和市蔵敷にある史跡である。都の旧跡に指定されている。
 江戸時代の上意下達(じょういかたつ)を張り出す高札場で、徳川幕府が法度や犯罪人の罪状など住民に知らせるために使われていたもの。お江戸日本橋をはじめ江戸には三五ヶ所あったといわれるが、明治時代になり、不要となると次々に取り壊され、多摩地区では府中とこの蔵敷の二ヶ所しか残っていない。
 旧青梅街道に面した旧名主内野家の門前に設けられたものだが、府中とは違って間口二米ほどの小さい場所となっている。ここに掛けられていた高札のいくつかは、今でも内野家に保管されている。
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2008/8/14


大平一里塚 Oohira-ichiri-zuka 

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 一里塚(いちりづか)は、慶長九(1604)年、江戸幕府が全国の街道に、一里、3.9キロメートル毎に道の両側に設置し、旅の道しるべや休息地としたものである。約9メートル四方に土を盛り、主として榎(えのき)を植えた。
 大平(おおひら)一里塚は、東海道岡崎と藤川の宿場の間に位置し、塚の大きさは、高さ2.4メートル、横幅6.7メートル、縦右7.3メートル、縦左8.5メートルのひし形をしている。こんもりとした塚に大きな榎が葉をゆらしていて、よく目立っている。塚のみが残っているものは多いが、このようにほぼ現存をとどめている一里塚はめずらしい。
 北側の塚は南側の塚より大きかったが、昭和三(1928)年の道路改修で壊され、代わりに秋葉山に登る人たちの安全を守る常夜灯が建てられた。南側の塚はそのまま残され、昭和一二(1937)年に国指定の史跡となった。
 塚中央の榎は昭和二八(1953)年の台風で倒れ、現在の榎は2代目のものである。
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2008/6/30


神岡城 Kamioka-jou 

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 神岡城(かみおかじょう)は、岐阜県飛騨市神岡町城ケ丘にあった城である。
 永禄七(1564)年、越中への侵攻拠点とする事を目的に、武田信玄の命令で江馬時盛(えまときもり)が築城し、高原諏訪城の支城となった。
 天正一三(1585)年、金森長近による飛騨攻略の結果、その家臣・山田小十郎が城代となったが、元和元(1615)年に江戸幕府の一国一城令で破却され、廃城となった。
 元々は江馬館、東町城などと言われ、江戸時代に書かれた「飛州志」には江馬之御館と書かれていたが、昭和四五(1670)年、城跡に模擬天守を造った時に、神岡城という名前になった。
 現在、城跡には再現された天守閣や残された遺構である壕や石塁などがあり、内部では実際に使用された鎧、刀剣、馬具などが一般公開されている。
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2008/4/11


剣道 Kendou 

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 剣道(けんどう)とは剣術の竹刀稽古を競技化した武道である。
 平安時代(794~1185)の中頃に日本刀が出現し、室町幕府以降には、剣術の高度化が進み洗練された刀法が確立されていったとされる。
 江戸幕府以後、剣術は人を殺傷技術から武士としての技芸や精神鍛錬の目的が強くなり、竹刀稽古が盛んになった。大正八(1919)年、剣術から「剣道」と改名され、庶民にも広まっていった。
 選手の服装は剣道着と袴(はかま)を基本とし、防具として垂れ・胴・面・小手の剣道具を着用する。試合場では一辺9~11メートルの正方形ないし長方形の中で二人が向き合い、竹刀で防具の決められた箇所を打ち、技とする。
 一切の無駄を省いた姿・形の美は、現在にいたるまで老若男女を問わず人気の武道であり、昭和四五(1970)年に、国際剣道連盟が結成された事で、世界各地でも浸透しつつある。
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2008/2/29


玉川上水緑道 Tamagawa-jousui-ryokudou 

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 玉川上水緑道(たまがわじょうすいりょくどう)は、玉川上水に沿ってつくられた緑道のことである。
 玉川上水とは、羽村市から四谷大木戸まで約四三キロメートルの水路をいう。江戸幕府は、江戸市民の人口が増加し、小川や井戸だけでは飲み水を確保することができなくなったため、多摩川の水を江戸に引く計画を立てた。承応二(1653)年、玉川庄右衛門、清右衛門の兄弟が幕府の命により上水を完成させた。
 現在、玉川上水緑道として整備されているのは、福生(ふっさ)市にある平和橋から三鷹市の牟礼橋までの二三・八キロメートルの区間で、昭和五六(1981)年に開設されたものである。
 この緑道沿いには薬用植物園、小金井公園などがあり、特に春の小金井桜堤は多くの花見客で賑わいをみせる。 
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2008/1/22


高尾山 Takao-san Mt. Takao

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 高尾山(たかおさん)は、東京都八王子市にそびえる標高599mの山である。
 明治の森・高尾国定公園に指定されており、大阪の明治の森・箕面(みのお)国定公園との間に整備されている東海自然歩道の起点ともなっている。
 徳川幕府以降保護されてきたため、照葉樹林やブナなどの落葉樹林が広がり、多くの動植物が本来の姿を留めている。
 また、霊山としても長い歴史を持ち、山腹にある髙尾山薬王院・有喜寺は真言宗智山派の大本山で、成田山新勝寺、川崎大師・平間寺とともに、関東三山のひとつにもなっている。
 東京都心部に近いため、明治以降、牧野富太郎をはじめ、多くの研究者により高尾山が最初の発見地として新しい植物が発表された。
 高尾山は、都心に豊かな自然を残す静かな山である。
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2008/1/15


一之宮 貫前神社 Ichinomiya Nukisaki-jinja 

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 上野國一之宮。延喜式神名帳では名神大社に列する。
 一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)の開基については諸説あるが、安閑天皇の元(531)年頃と言われ、一般に多胡碑(たごひ)などで知られる甘良(甘楽)の谷の帰化人集団が祀ったのが始まりと見られている。
 赤城神社から一之宮の称号を譲られたと言われ、渡来系氏族による古代上毛野國征服を表すとも伝えられる。
 もとは貫前神と抜鉾神(ぬきほこのかみ)の二社二神であったが、両社が一社と混同されるようになったので明治に入り貫前神社と名乗り、戦後の社格廃止に伴い一宮貫前神社と改称したと言われる。
 参道を上り正面の鳥居をくぐって急な石段を下ったところに社殿が有る、という特異な構えが特徴で、勅額鳥居の東隣等に神宮寺跡の石垣が残る。社域は約九万平米。総門から見下ろす朱塗りの社殿と社叢の調和には息を飲む。
 寛永一二(1635)年に徳川幕府によって造営された、本殿、拝殿、楼門は重要文化財に指定されている。
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2007/12/10


御殿稲荷 Goten-inari 

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 御殿稲荷(ごてんいなり)は静岡県熱海市中央町にある稲荷神社である。
 江戸幕府三代将軍・徳川家光は、家康も湯治をしたというこの熱海に、湯治御殿を造らせた。その際に御殿の鬼門除けのために京都伏見稲荷神社より分祀して建てたのがこの「御殿稲荷」である。しかし多忙のためか、実際には家光は湯治御殿をつくったものの、一度も湯治には訪れなかったという。その代わり、熱海大湯の湯は頻繁に江戸城本丸、西の丸に届けられるようになった。こうして熱海の湯は、将軍家ご用達になっていく。
 この稲荷神社の近くには、天平勝宝元(749)年、少彦名命(すくなひこなのかみ)の神託により建てられた湯前神社(ゆぜんじんじゃ)があり、毎年二月一〇日と一〇月一〇日に「献湯祭」が行われている。この祭りは、江戸時代、毎年数回行われた将軍家へ温泉の湯を献上する「湯汲み道中」の故事に因んで始まった祭りである。
 御殿稲荷は春には桜花も美しい、徳川家光ゆかりの社である。
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