NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/29


天念寺耶馬 Tennen-ji-yaba 

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 天念寺は、六郷満山の中山本寺(なかやまほんじ)で、養老二(718)年に仁聞菩薩によって開基されたと云われる。平安・鎌倉時代には他の寺院と同様に修験と祈願の寺院として繁栄。鎌倉時代の元寇の際には、満山寺院の僧を集めての戦勝祈願の法要が盛んに行われたとも伝えられている。現在でも六郷満山古来の正月行事である「修正鬼会」が受け継がれている。
 天念寺の前を流れる長岩屋川には川中の巨岩に不動三尊が刻まれているが、この川は幾度となく氾濫を繰り返したため、水害除けに刻まれたと伝えられている。
 このように天念寺周辺は風雨などで浸食された奇岩・巨岩がそびえ立つ景勝地で、その美しさから「天念寺耶馬」や「都合耶馬」と呼称され、人々に広く愛されている。耶馬と言われる様に、木々の上に突き出た岩場を見ると、まるで馬が暢気にしゃがんでいるかのような姿が浮かんでくる。
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2007/4/12


源宗坊 Gensou-bo Gensobo Temple

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 明治39年に稲田源宗坊が開いたお寺で、門をくぐると道に沿って配置された15体の仏像を見ることができる。
 稲田源宗坊が諸国修行の後に、この地で3年間の荒修行を行い、諸人の病苦を除くことを発願し、薬草を煎じ病人を養い、独力で仏像を刻んだ。
 昔は四季折々の花の咲く公園のような場所だったそうだが、これまでに3度の水害により、仏像が破損するなどの被害を受けている。
 現在源宗坊の孫にあたる原田詳源さんは、人々の憩いの場所として利用されることを願い、仏像やお寺の管理を続けている。
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2007/4/6


信玄堤 Shingen-Tsutsumi 

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 信玄堤は山梨県甲斐市、釜無川、御勅使川に造られた堤防を指す。
 天文十(1541)年、父信虎を追放して家督を継いだ武田信玄が治水工事を始め、以降二十年を費やして完成した。
 扇状地であり、かつ急流の河川が多い甲府盆地は慢性的な水害が発生しており、農業を始め人々の生活に多大な被害を与えていた。
 釜無川と御勅使川は中でも有数の急流であり、合流地点となる高岩から氾濫が広がる為、信玄は両河川の流れを弱める為に多くの堤を造り、巨石を埋め、堤防を厚く高くすることによりこれを解決した。
 これらは当時の最先端の河川工事技術を費やしたものであり、工事全体を指して信玄堤と言う事もある。
 この技術は甲州流と称され、江戸時代になっても多くの河川工事で用いられ、大いに効果を発揮したと言う。
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2007/3/26


徳丹城 Tokutan-jyou 

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 徳丹城は、もともとあった志波城を、水害を理由に弘仁2(811)年、文室綿麻呂の建議により南10kmに移転・造営したものである。
 沖積面の微高地に立地し、約350メートル四方となる。材木列で周囲を囲み、70〜80メートルの間隔で櫓を建てていた。 
 内部には官衙建物群があり、志波城の政治機能を引き継いだものとされている。
 さらに弘仁6(815)年には配置されていた鎮兵500人が廃止され、正規軍が配置されなくなる。しかし、徳丹城自体は9世紀半ばまで使用されていた形跡があり、律令国家に協力的な俘囚の軍が配置されていたと考えられている。
 内部の周辺にはいくつかの役所群が存在するが、その実体は明らかでなく、九世紀の中頃にいたって徳丹城は衰退したものと思われる。
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2007/3/22


眼鏡橋 Megane-bashi 

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 眼鏡橋は、2連のアーチが、水面に写る部分と合わせると眼鏡のように見えることからその名がついた。日本三名橋に数えられている。
 長さ22.35メートル、幅4.68メートル、総高5.23メートルの日本最古の石造アーチ橋は、長崎県を流れる中島川に架かっている。
 長崎開港(1570年)から出島が置かれた鎖国時代、貿易のための水運利用により町の中心となった中島川に架けられた橋の数は最多時17〜18基。しかし、幾度となく崩流滅失。眼鏡橋も昭和五七(1982)年の長崎大水害で一部崩壊したが、流された石を集めて翌年復元された。
 橋の向こうに夕日が沈む景色は雄大で見ごたえがある。また、河畔は中島川公園として整備され、散策に最適。夜はライトアップされ、こちらも必見だ。
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2007/3/6


吉野川橋 Yoshinogawa-bashi 

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 吉野川橋は徳島県徳島市に位置する、吉野川に架かる橋のことである。
 明治時代、吉野川橋周辺には木橋の古川橋が架設されていたが、一部は船を使った舟橋であり、水害のたびに被害を受けていた。
 大正十(1921)年に永久橋の架設が決定され、当時アメリカで橋梁技術を学んだ増田淳により設計。増田はこの後も徳島で好橋、穴吹橋を建設し、東京で白髭橋や千住大橋の設計も行なった。
 吉野川橋は昭和三(1928)年に完成、全長1080メートル、幅6メートルの鉄筋、ワーレントラス式の鉄橋。当時、東洋最長の橋であり、観光客が絶えなかった。
 無骨ながらも美しいリベット止めの吉野川橋は、徳島の風景として市民に広く親しまれている。
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2006/12/22


吉野川 Yosino-gawa The Yoshino River

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 吉野川(四国三郎)は、吉野川水系(一級水系)の本川であり、愛媛県西条市に頂を有する瓶ケ森(標高1896m)より湧き出で、高知県を横切り、徳島市で紀伊水道に注ぐ清流である。
 全長194km、流域面積は3750平方キロ米。日本三大暴れ川の一つであり、その流れは徳島県民の心の象徴とも言われている。
 高知、愛媛、徳島が関係するため、かつては三土地川(みどちがわ)とも呼ばれていた。讃岐山脈と四国山地に挟まれた下流域では徳島平野を形成している。四国山地を横切る箇所は日本における先行谷の代表例であり、大歩危・小歩危と呼ばれる景勝地でもある。
 四国三郎という渾名の由来は「ヨシが河原に多く繁る川」からだと言われている。四国四県を網羅するその水系は数多くの水害の歴史を持つが、同時に流域の生命線として、人々に多大な恩恵を与えている。
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2006/12/15


肥前鹿島城 Hizen-Kashimajou Hizen Kashima Castle

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 肥前にある鹿島城は、佐賀鍋島藩の支藩を治めた鹿島鍋島家(鹿島藩二万石)の城である。慶長16年(1610年)の立藩以来、居城(常広城)は低地にあったため水害に見舞われることが多かったが、ようやく文化三(1806)年に幕府の許可を得て、この地に城が築かれた。しかし明治維新後、佐賀の役(明治七(1876)年)で、城は焼払われ、城の主要な建物はほとんど焼失。鹿島鍋島藩当時の面影を残すのは、赤門と大手門のみである。
 丹塗りの赤門は、切妻造り・桟瓦葺きで、今は県立鹿島高校の校門となっている。大手門は切妻造り・本瓦葺き、今は丹塗りであるがもともとは黒塗りであった。
 時が流れ、今は旭が岡公園と呼ばれる城址は桜の名所。本数では県内最多の5000本、ライトアップされた夜桜も素晴らしい。春には市民の散策する姿が絶えない。
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