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2007/12/26


岩槻人形 Iwatsuki-ningyou 

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 岩槻人形(いわつきにんぎょう)は、埼玉県の岩槻で古くから作り続けられている桐塑人形(とうそにんぎょう)である。
 岩槻の周辺は古来から桐の産地であり、箪笥や下駄の生産が盛んであった。
 そこに、日光東照宮の造営に当たっていた工匠たちが留まり、そうした桐細工物の加工で出た桐の粉を糊と練り固めて人形を作ったのが始まりといわれている。
 また、岩槻の水が人形の顔を塗る胡粉を溶くのに適していたことも幸いしたといわれている。
 壊れにくい上に量産も可能であり、精巧度も高いことから岩槻を中心に急速に発達。また、すぐ近くに江戸という一大市場があったこともその発展に影響したといわれている。
 江戸中期以降では、人形造りは藩士の内職として盛んに行われるようになり、藩の専売品にもなっていた。
 現在でも岩槻の代表産業の一つであり、平成一九年には国の伝統的工芸品にも指定され、その白く、細やかで美しい人形を生み出し続けている。
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2007/12/4


だんじり工芸 Danjiri-kougei 

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 だんじり工芸(だんじりこうげい)は、大阪府八尾市に伝わる伝統工芸品である。
 だんじりとは、大阪などの伝統的な祭りに使われる山車の事を言い、岸和田のだんじり祭りなどで、その言葉が知られている。
 だんじりの語源は諸説あり、屋台をじりじりと動かすことから、「台ずり」が転じたか「山車(だし)」が方言化され、「だんじり」になったとする説などがあり、正確な語源は不詳とされる。
 だんじりは、江戸時代末期に幕府が当地の山車を造る大工たちの技術を認め、日光東照宮の修築施工を命じたことがあったほど、宮大工の最高の技術を結集した工芸品と言われている。
 現在では、展示会出展や愛好家のためのミニチュアだんじりの製作も行われている。
 だんじり工芸は、祭りには欠かせない伝統的な工芸品である。
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2007/11/28


東照宮 五重塔 Toushou-guu Gojuu-no-tou 

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 世界遺産に登録され、観光地としてもあまりに有名な日光東照宮。本殿や陽明門をはじめ、境内のほとんどの建造物と美術工芸品が文化財に指定され、その規模とともに訪れる者を圧倒する。
 元和三(1617)年、江戸幕府初代将軍徳川家康を奉祀するため、二代将軍秀忠により造営された東照宮は、寛永一三(1636)年には三代将軍家光により建て替えられ、今日の絢爛豪華な社殿群となった。
 境内の外れに建つ五重塔は、国の重要文化財に指定されている。慶安三(1650)年に若狭国小浜藩主の酒井忠勝(さかいただかつ)により献納されたが火災に遭い、文化一四(1817)年に子孫の酒井忠進(さかいただゆき)によって再建された。初層から四層までが和様、五層が唐様で、垂木(たるき)の形が異なる。初層の蟇股(かえるまた)には、十二支の動物が彫刻されている。内部には四天柱が置かれ、須弥壇に四方仏が安置されている。
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妙宣寺 五重塔 Myousen-ji Gojuu-no-tou 

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 佐渡には新潟県内唯一の五重塔がある。妙宣寺(みょうせんじ)の五重塔、国の重要文化財である。
 寺のはじまりは、鎌倉中期、法華経を唱えた日蓮が佐渡へ流された時、日蓮の身の回りの世話をしていた遠藤為盛と妻の千日尼が自宅を寺として開基したのが始まりだと伝えられている。弘安元(1278)年のことである。為盛は日蓮の直弟子となり後に阿仏房日得上人といわれた。寺には日蓮聖人筆書状などが残されている。
 五重塔は、佐渡相川の宮大工の棟梁親子が三十年の歳月をかけ、文政八(1825)年に完成させた。日光東照宮の五重塔を模したといわれるその姿は、高さ約24m、本瓦葺の純和様で、四天柱と心柱を貫(ぬき)でつなぐ独自の手法が用いられている。東照宮の五重塔は文化一四(1817)年の再建である。
 初層の隅木(すみぎ)下の持送りには、棟梁作の竜頭の彫刻が見られるなど、地方色豊かな仕上がりになっている。
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2007/8/7


弘前東照宮 Hirosaki-toushouguu 

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 弘前東照宮(ひろさきとうしょうぐう)は、江戸時代初期に全国に作られた徳川家康を祀る東照宮の一つで、津軽藩二代藩主・津軽信枚(つがるのぶひら)が元和三(1617)年に日光東照宮に祀られている徳川家康を分霊。弘前城本丸に勧請し、寛永元(1624)年現在地に移した。
 他の地域にある東照宮と比べ早い時期に勧請できたのは、信枚の正室が家康の養女であり、親藩に準ずる家柄と認められたためであった。
 本殿は白木造りで、屋根の装飾である鬼板(おにいた)や屋根の両端部分を装飾する妻飾(つまかざり)、梁の上に置いた受け木である蟇股(かえるまた)には徳川家の家紋である葵紋が彫られている。
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2007/6/15


妙義神社 Myougi-jinja Myogi Shrine

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 妙義神社は、群馬県富岡市妙義町にある神社である。祭神は、日本武尊、豊受大神、菅原道真。
 宣化天皇二(537)年、白雲山の東の麓に創建された。
 江戸時代においては歴代将軍から厚い崇拝を受け、古くから武士や民衆から信仰されてきた。
 宝暦六(1756)年、現在見られる黒漆塗銅葺入母屋造の本殿と銅葺平入の唐門、総門が建てられた。いずれも、国の重要文化財に指定されている。
 建物に施された龍や鳳凰などの精巧な彫刻は、日光東照宮の彫刻師の手による物と伝えられる。
 例大祭は4月15日と10月15日に催され、春には樹齢200年以上のしだれ桜が咲き誇り、秋には真赤に色づく紅葉に覆われ社殿が映える。
 妙義神社は、天狗信仰も根強い歴史ある社である。
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2007/5/31


脇往還 Waki-oukan 

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 脇往還(わきおうかん)は、江戸時代の五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)以外の主要な街道を言い、脇街道、脇道とも呼ばれた。
 脇往還は、五街道ほど関所の取締りが厳しくなく、女性たちに重宝された。
 脇往還の主な街道は、次の通りである。
水戸路(江戸~水戸)
伊勢路(四日市~山田)
佐屋路(岩塚~桑名)
美濃路(名古屋~垂井)
中国路(大阪~小倉)
下仁田路(上州~信州)
館林路(川俣~青柳)
 下仁田路は、険しい地形でもなく、また武士の往来も少なかったため、善光寺参りの女性によく利用され、別名「信州姫街道」とも呼ばれた。館林路は、「日光脇往還」と呼ばれ、日光東照宮への参詣客たちがよく利用したものである。各脇往還には、道標や宿屋町の名残を残す史跡などがあり、今では歴史の面影を残す格好の散歩道としてウォーキングを楽しむ人々に人気だ。
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2007/5/10


金沢箔 Kanazawa-haku Kanazawa Gold Leaf

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 金閣寺、日光東照宮をはじめ、漆工芸、仏壇仏具や織物、久谷焼など、様々な分野で美しい輝きを創造する金沢箔。石川県の金沢は、400年以上の金箔の歴史を持ち、現在は日本一の金箔生産量を誇る。
 江戸時代、江戸や京都以外で箔を作ることは禁止されていたが、加賀藩では藩の工芸振興のために、公にはせず金箔の生産を行っていた。雨や雪の多い金沢の気候が金箔を作ることに適していたことも、金沢箔の発展に貢献した。第一次世界大戦中にドイツが金箔を供給できなくなると、金沢が金箔を輸出。これにより世界的に金沢箔が有名になった。
 箔打ちは、10円硬貨ほどの大きさの金合金を叩いて、畳2枚分の大きさまで伸ばす作業。透かすと向こう側が見えるほどの薄さになっても金の輝きを失うことなく、均一の薄さに仕上げなければならない。この絶妙な匠の技が、多くの文化遺産を現代へと伝える大きな役割を果たしたのである。
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