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鹿児島市にある福昌寺(ふくしょうじ)跡地は、現在の玉龍高校の裏手に位置している。
応永元(1394)年、島津氏第七代当主・島津元久の要請により曹洞宗の高僧・石屋真梁(せきおくしんりょう)が建立し、以後島津家の菩提寺となった。
江戸時代の絵図「三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)」には、幾重にも連なる建物と大回廊を持つ南九州屈指の大加羅として登場する。薩摩、大隅、日向の三州の僧侶を支配する僧録所もあり、千五百人の僧侶がいたという。
天文一八(1549)年、島津貴久から宣教の許可を得たフランシスコ・ザビエルがこの福昌寺を宿所とし、当時の福昌寺住持であった忍室(にんじつ)と互いの宗教について親交を深めた。
明治二(1869)年、神道国教・祭政一致、仏教施設の廃止という政府の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が行われ、貴重な建築群や歴代藩主が奉納した寺宝類もろとも破壊されてしまう。
現在、周囲は掃き浄められ、緑に囲まれて島津家や歴代の高僧の美しい墓地群が残っている。
応永元(1394)年、島津氏第七代当主・島津元久の要請により曹洞宗の高僧・石屋真梁(せきおくしんりょう)が建立し、以後島津家の菩提寺となった。
江戸時代の絵図「三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)」には、幾重にも連なる建物と大回廊を持つ南九州屈指の大加羅として登場する。薩摩、大隅、日向の三州の僧侶を支配する僧録所もあり、千五百人の僧侶がいたという。
天文一八(1549)年、島津貴久から宣教の許可を得たフランシスコ・ザビエルがこの福昌寺を宿所とし、当時の福昌寺住持であった忍室(にんじつ)と互いの宗教について親交を深めた。
明治二(1869)年、神道国教・祭政一致、仏教施設の廃止という政府の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が行われ、貴重な建築群や歴代藩主が奉納した寺宝類もろとも破壊されてしまう。
現在、周囲は掃き浄められ、緑に囲まれて島津家や歴代の高僧の美しい墓地群が残っている。
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