NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/11/9


長福寿寺 Chouhukujyu-ji 

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 長福寿寺(ちょうふくじゅじ)は、千葉県長生郡長南町長南にある天台宗の寺である。本尊は阿弥陀如来。
 延暦一七(798)年、桓武天皇の勅願により、伝教大師・最澄によって創建された。
 正式名を、三途河頭極楽東門蓮華台上阿弥陀坊太平埜山本実成院長福寿寺と言い、日本一長い勅号とされている。
 関東における学問所として、房総内外の寺院子弟の教育にあたり、中世においては西の比叡山、東の三途台と称せられ、房総三国における大本山として末寺308ヶ寺を有した大寺である。
 現在は研修道場としても開放され、各種講演会が開催されている。境内には紅花が咲いており、所蔵の木造慈恵大師坐像は、県指定の有形文化財になっている。
 長福寿寺は、長い歴史を誇る関東随一の大古刹である。
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2007/10/31


青蓮院 Shouren-in 

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 青蓮院(しょうれんいん)は、比叡山延暦寺の三門跡の一つで天台宗の寺院で知られる。門跡寺院とは、皇族や摂関家など高貴な身分の子弟が入寺した、特定の寺院をさす。天台宗の三門跡寺院とは、青蓮院、三千院、妙法院のことである。
 寺の歴史は古く、比叡山につくられた僧侶の住坊が起源といわれ、そのひとつである「青蓮坊」が青蓮院の起源であるといわれている。当時は最澄、円仁はじめ高僧の住居であったという。
 青蓮院は別名「粟田御所(あわたごしょ)」とも呼ばれている。これは天明八(1788)年に京都で起こった天明の大火のとき、後桜町上皇(ごさくらまちじょうこう)の仮内裏になり、そのため江戸末期まで一般の立ち入りが禁じられていたことによる。
 門前にはクスノキの巨樹があり、樹齢は約八〇〇年といわれ、京都市の天然記念物に指定されている。
 また、室町時代に相阿弥(そうあみ)が作庭したと伝えられる龍心池を中心とした回遊式庭園も見物である。
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2007/10/17


東門院 守山寺 Toumon-in Moriyama-dera Tomonin Moriyamadera Temple

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 天台宗の開祖・最澄が延暦一三(794)年に開いたと伝えられている。これより六年前に建立された比叡山延暦寺の東門に当たることから東門院(とうもんいん)と呼ばれ、桓武天皇により比叡山を守る寺に名号されたことから守山寺(もりやまでら)とも呼ばれている。所在地名の守山はこれに由来するという。
 江戸時代には朝鮮通信使特使の宿舎にもなったが、昭和六一(1986)年に本堂、庫裏が火災で全焼。本堂に安置され傑作と賞賛された十一面観音像も同時に焼失したが、平成二(1990)年に本堂を再建、十一面観音像も修復された。
 焼失を逃れた護摩堂本尊の不動明王坐像、境内の片隅にある鎌倉時代の石造五重塔は国の重要文化財に指定され、その他の美術品とともに、千二百年余りに及ぶ寺の歴史を物語っている。
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2007/10/11


龍光院 Ryuukou-in 

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 龍光院(りゅうこういん)は縁起によれば、大同元(806)年、最澄(弘法大師)が四国八十八カ所霊場の開創を発願し成就したのを記念して、宇和島湾の九島に建立したのが始まりとされる。大師二回目の巡錫(じゅんしゃく)の際、島にあるのは不便だとして現在地に移された。寛永一五(1638)年に京都大覚寺二品親王空性が四国遍路の折り、臨海山福寿寺(ふくじゅじ)の号を与えた。昭和二〇(1945)年、大戦の空襲に見舞われたが、その後復興された。
 111段の石段を上るにつれ宇和島城が見えてくる。階段を上り切ると本堂や大師堂が現われ、境内には芭蕉の句碑や、大阪の俳人・椎本芳室(しいもとほうしつ)を称える宇和島最古の文学碑などが置かれている。本尊は十一面観世音菩薩。山頂にある白亜の除災招福大観音は平成二(1990)年、万民の平和と幸福を願い建立された。一石彫りとしては西日本随一の大きさを誇る。
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2007/9/27


最澄 Saichou Saicho

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 最澄(さいちょう)は平安時代初期の僧。日本天台宗の開祖。
 天平神護二(767)年、近江国(滋賀県)の生まれ。中国からの渡来人・三津首(みつのおびと)の子孫で、幼名は広野といい、14歳で近江国・国分寺に出家し、名を最澄とした。
 19歳の頃、東大寺で正式の僧となるが、 官寺仏教に疑問を持ち、比叡山に一乗止観院(延暦寺の前身)を建立し、そこに籠もり修行した。開眼し下山するまで約12年を要し、それが「12年籠山」という修行規則として制度化されている。
 延暦二三(804)年に唐に渡り、円・密・禅・戒という四宗を学んだ。帰国後、桓武天皇の支持を受けて天台宗を創設した。『山家学生式』『顕戒論』『内証仏法血脈譜』などを記している。
 弘仁一三(822)年に比叡山の中道院で没。没後44年目に日本で最初の伝教大師の称号が与えられた。
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2007/9/7


箱泉寺 Sousen-ji 

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 箱泉寺(そうせんじ)は、宮城県石巻市河南町にある古刹である。
 伝教大師の弟子の慈覚大師が貞観年間(859~877)に開いたとされる。
 天正三(1575)年に俊光と号する僧が中興に努め、真言宗にと改められた。
 寺は旭山の北側の斜面に位置し、周りは森で囲まれている。参道の石段を登ると、なんとも年代を感じさせる四脚門の山門が構えている。山門をくぐると、前方に本堂があり、本堂の右側は渡り廊下となり、玄関、庫裏へと続いていく。
 本堂の前には大杉と平成九(1997)年に根方山より勧請され、多くの人の願いをかなえてくれるといわれる千願石・万願石がある。
 この地は清水が豊富に湧き出る里としても知られており、境内にある独鈷水(おこうずい)は、慈覚大師ゆかりの水で、寺の名前の由来になっている。
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2007/8/29


日吉神社 三重塔 Hiyoshi-jinja Sanjuu-no-tou 

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 濃尾平野の北西部、大垣市に隣接する神戸町(ごうどちょう)に日吉神社がある。弘仁八(817)年、最澄が東国に天台宗を広めるためこの地に立ち寄った際に創建したといわれ、近江坂本の日吉大権現を主神として七柱の神を祀り、往時は八人の社僧を抱え、比叡山と共に栄えてきた。
 この神社には、室町時代の建築様式を申し分なく発揮した貴重な三重塔が現存する。永正年間(1504~1520年)に斉藤利綱が建立し、天正十三(1585)年に稲葉一鉄が修造した。
 三重塔は各層の平面がやや小さく、その分、軒が深く感じられる。全体のバランスは良いものの、二層には設けられている高欄を付した縁が三層にはなく、その理由は不明。檜皮葺屋根や、すらりと伸びた型通りの鉄製の相輪が美しい。
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2007/5/29


空海 Kuukai Kukai

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 空海(くうかい)は、中国から密教を伝えた日本真言宗の開祖である。書道家としても、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆の一人と言われる。
 宝亀五(774)年、四国の善通寺近くにて生誕、奈良の大学で学ぶが、儒学では社会の矛盾を解決できないと悩み、空海と名乗り修験者となる。
 延暦二三(804)年、最澄らと中国へ渡り、文化・宗教などを学び、翌年、密教の頂点に立つ青龍寺の恵果を訪れ、密教を継承。二年後に帰国、高雄山寺にて真言宗を興し、中国で学んだ知識を活かして各地で土木工事の指揮を取り、書道や絵画・彫刻の才能を発揮し、宗教家・社会事業家・芸術家として精力的に活動したが、承和二(835)年、3月21日に高野山にて病死する。
 天安元(857)年、文徳天皇は空海に大僧正の号を遺贈する。
 延喜二一(921)年、醍醐天皇が空海に弘法大師の諡号を贈る。
 弘法大師空海は、平安以後の日本仏教に多大な影響を与えた、数多くの伝説を持つ高僧である。
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