|
上野國一之宮。延喜式神名帳では名神大社に列する。
一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)の開基については諸説あるが、安閑天皇の元(531)年頃と言われ、一般に多胡碑(たごひ)などで知られる甘良(甘楽)の谷の帰化人集団が祀ったのが始まりと見られている。
赤城神社から一之宮の称号を譲られたと言われ、渡来系氏族による古代上毛野國征服を表すとも伝えられる。
もとは貫前神と抜鉾神(ぬきほこのかみ)の二社二神であったが、両社が一社と混同されるようになったので明治に入り貫前神社と名乗り、戦後の社格廃止に伴い一宮貫前神社と改称したと言われる。
参道を上り正面の鳥居をくぐって急な石段を下ったところに社殿が有る、という特異な構えが特徴で、勅額鳥居の東隣等に神宮寺跡の石垣が残る。社域は約九万平米。総門から見下ろす朱塗りの社殿と社叢の調和には息を飲む。
寛永一二(1635)年に徳川幕府によって造営された、本殿、拝殿、楼門は重要文化財に指定されている。
一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)の開基については諸説あるが、安閑天皇の元(531)年頃と言われ、一般に多胡碑(たごひ)などで知られる甘良(甘楽)の谷の帰化人集団が祀ったのが始まりと見られている。
赤城神社から一之宮の称号を譲られたと言われ、渡来系氏族による古代上毛野國征服を表すとも伝えられる。
もとは貫前神と抜鉾神(ぬきほこのかみ)の二社二神であったが、両社が一社と混同されるようになったので明治に入り貫前神社と名乗り、戦後の社格廃止に伴い一宮貫前神社と改称したと言われる。
参道を上り正面の鳥居をくぐって急な石段を下ったところに社殿が有る、という特異な構えが特徴で、勅額鳥居の東隣等に神宮寺跡の石垣が残る。社域は約九万平米。総門から見下ろす朱塗りの社殿と社叢の調和には息を飲む。
寛永一二(1635)年に徳川幕府によって造営された、本殿、拝殿、楼門は重要文化財に指定されている。
[+ADDRESS] |