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2008/7/11


紺絲威鎧 Konitoodoshi-yoroi 

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 紺絲威鎧(こんいとおどしよろい)は、愛媛県今治市大三島町宮浦の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)に伝わる防具である。国宝に指定されている。
 大山祇神社は、推古天皇二(594)年に創祠されたと伝わる、日本総鎮守ともされる古社である。祭神は大山積神(おおやまつみのかみ)。国宝8件、国の重要文化財75件を所有する日本有数の神社である。
 源平合戦で、屋島合戦に軍船130隻を率いて源義経軍に加わり、後には奥州藤原氏の討伐にも参加した三島水軍の総帥である河野通信(こうのみちのぶ)所用と伝わっている。
 見目が大変美しく、現在は源平合戦時代の鎧の代表作であるとされている。
 紺絲威鎧は、屋島・壇ノ浦の合戦の戦勝のお礼に奉納したと伝わる貴重な鎧である。
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2008/5/26


三田城跡 Sanda-jyo-ato 

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 三田城跡(さんだじょうあと)は、兵庫県三田市屋敷町にある城跡である。
 天正二(1574)年、伊丹城主・荒木摂津守の武将である荒木平太夫の居城として車瀬城を築城し、門前集落を基礎とした城下町が建設された。
 戦国時代末期から、山崎堅家、有馬則頼、松平重直と城主が代わり、寛永一〇(1633)年、志摩鳥羽の九鬼久隆が三万六千石の大名として入封した。同時に以前からあった車瀬城を廃し、三田城を築いた。
 城跡は現在の三田小学校のあるところで、有馬高校実習園が二の丸跡となっている。三田小学校前には城跡碑があり、有馬高校との間にわずかに内堀が残る。
 大池は三田城の堀であった所で、九鬼氏が山間の三田に移されても九鬼水軍の昔を忘れぬように、と舟艇操縦の練習をした場所である。
 三田城跡は、三田市の中心にある、かつて要害だった城跡である。
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2008/5/12


能島城跡 Noshima-jou-ato 

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 能島城跡は、宮窪港沖合の浮かぶ周囲720mの島である。応永二六(1419)年、村上雅房(むらかみまさふさ)が築城したと言われる。
 能島村上水軍の中枢本部として栄えていたが、天正一六(1588)年、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の海賊禁止令により、村上氏が九州へ移り無人島になったとされる。
 島全体が海城だったが、現在は船溜り跡の石塁を残すのみとなっているという。
 能島の隣に位置する小島鯛崎島との間にある岩礁の上には、大かがりな桟橋防材の跡や、干潮時には丸い柱杭の穴が無数に残っているのも見られる。
 春には桜が島全体を埋め尽くすほどに咲き乱れ、桜の名所としても有名である。普段は交通手段がないので、カレイ山展望公園から望むだけだが、桜まつりの2日間だけはシャトル運行の船便が出て賑わうという。
 現在は、国指定史跡になっているという。
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2007/12/25


笠島集落 Kasajima-shuuraku 

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 笠島集落(かさじましゅうらく)は、国選定の伝統的建造物群保存地区で、約一〇〇戸の江戸末期から明治期にかけての建物が残る集落である。
 笠島は戦国時代まで、水上の兵力、塩飽水軍(しわくすいぐん)の本拠、江戸時代には要所として栄えた。その後貨物船の世話をする廻船問屋として栄えた笠島だったが、後に船舶建造の腕を活かし、家屋建築の塩飽大工として島民達が全国で活躍するようになったという。
 大工が各地から帰省する度に家屋を手入れしていたため、江戸時代の町並みがとても良い状態で保存されているという。
 街並みは迷路のようになっており、富を誇示するように粋を凝らして建てた屋敷が建ち並ぶ。千本格子の出窓や、漆喰塗りの白壁の家々、なまこ壁の土蔵などが連なり、美しさと共に塩飽大工の技術力の高さも随所で感じられるという。
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2007/12/21


尾張 大野城跡 Owari Oono-jou-ato Ono Castle Ruins in Owari

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 大野城は別名・宮山城ともいい、伊勢湾が一望できる青海山(せいかいざん)の山頂に築かれている。城主は尾張源氏の大野氏・一色氏・佐治氏四代と続いた。
 大野城主・佐治氏は、知多水軍を率いて海運による交易などを進め、伊勢湾の海上交通を支配する上で重要な役割を果たしてきた。織田信長の妹と後の徳川秀忠の妻となる姪が佐治氏に嫁いだことも、信長が知多水軍の輸送力を重要視していたためと伝えられる。
 織田信長の妹お市の末娘・小督の方(おごうのかた)は、城主・佐治与九郎のもとへ嫁いだ後、徳川三代将軍家光の母となる。
 現在は城山公園として整備され、二層の天守閣に見立てた展望台と城門が建てられている。伊勢湾をのぞむ天主閣からの景色は素晴らしい。また、物見櫓跡には大野城主であった佐治氏を祀る佐治神社がある。
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2007/10/24


青陰城 Aokage-jyou Aokage Castle

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 青陰城は、広島県尾道市因島田熊町にあった山城である。
 南北朝時代、北朝の小早川氏と南朝の河野氏が因島で激突したとき、北朝方である小早川氏に対抗する伊予衆が、東にある堂崎山城の防御の一環として築いたのではないかと言われている。
 村上水軍の地であった瀬戸内海に浮ぶ因島には、たくさんの中世の城跡があるが、この青陰城は、因島の中西部、標高277mの青影山の山頂にあり、因島村上水軍の本城となった。築城は村上三郎左衛門義弘と伝えられる。
 以後、270年間、因島村上氏によって支配されたが、関ヶ原の合戦の後、慶長五(1600)年頃に廃城となった。
 現在、平坦な本丸跡や館跡、石垣の一部などが残っている。また、青影山の北方にある金連寺は、因島村上氏の菩提寺で歴代の墓塔が残されている。
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2007/10/15


屋島 Yashima Yashima

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 屋島(やしま)は香川県高松市北東部にある海抜293メートルの半島形溶岩台地である。
 かつては孤島であったが、江戸時代の埋め立て事業により陸続きの地となった。台地の頂上部分が平坦になり、その形が屋根に似ていることから屋島と名づけられたという。
 この地は歴史的にも興味深い場所である。源平の戦いのさ中、戦に破れ西へと移動した平家は、幼少の安徳天皇を拝し屋島を本拠地とした。その後、水軍に勝る平家は一時優勢へと転じたが、この屋島において、源氏の英雄である源義経の奇襲に合い大敗をきすこととなる。この戦いでは、戦場の平家の船に立てられた扇の的を、見事射止めた那須与一(なすのよいち)の話が有名である。
 現在、屋島から見下ろす瀬戸内海の美しい景色が評判で、訪れる観光客は多い。また、室町時代の再建といわれる屋島寺は国指定の重要文化財であり、祀られている蓑山大明神(みのやまだいみょうじん)は四国総狸の大将として崇められている。
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2007/9/4


河内祭・御船祭 Kouchi-matsuri Mifune-matsuri Kouchi Festival

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 本州最南端の町である和歌山串本町古座で毎年7月24、25日に「河内祭(こうちまつり)」が行われる。「御船祭(みふねまつり)」とも言われ、国の重要無形民俗文化財に指定された古座川を舞台にした水上の祭りだ。
 古く源平の戦いに源氏方として出陣した熊野水軍の勇士達の戦勝を、「河内神社」で祝ったのが始まりとされ、その凱旋の姿を伝えるものだと云われている。
 色鮮やかな陣幕や水引き、槍、矛、提灯などで飾った御舟3隻が、「古座神社」で入舟式を行い、河口から御神体である河内大明神の祀られている清暑島(せいしょとう)にゆっくりと2日かけて遡っていく。その為、参拝や奉納は本祭の25日に行われる。
 町では獅子が舞い、中学生らが櫂伝馬競漕を勇壮に繰り広げている。
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