NIPPON Kichi - 日本吉

記事数18件: 1~8 件表示     >>     >|  

2008/3/6


寂地峡五竜の滝 Jakuchi-kyo-goryuu-no-taki 

Jp

 寂地峡五竜の滝(じゃくちきょうごりゅうのたき)は、山口県岩国市錦町宇佐にある滝群である。日本の滝百選のひとつに選ばれている。
 寂地峡は、冠山に源を発する宇佐川の上流3・5kmの犬戻峡とその支流約1kmの龍ケ岳峡の総称で、西中国山地国定公園に属する渓谷である。
 五竜の滝とは、寂地峡を落ちる竜尾、登竜、白竜、竜門、竜頭という5つの滝の総称で、この5つの滝が落差200mを連続して流れ落ちており、その様子は、名前の通り龍が空に昇っていく姿のように見える。
 寂地川は水が綺麗で、名水百選にも選ばれている。
 遊歩道を歩けば全ての滝を一時間以内で観ることができ、奇岩怪石があることでも知られる。
 寂地峡五竜の滝は、まさに竜のように長大な瀑布である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/8/29


高鍋城址 Takanabe-jou-shi 

Jp

 高鍋城址(たかなべじょうし)一帯は舞鶴公園として整備され、二の丸表門が公園の正門にあたる。
 元々は財部城(たからべじょう)と呼ばれ、奈良時代に柏木左衛門尉が創築したと伝えられるが定かではなく、斉衡年間(854~56)に宇佐八幡宮の神官であった土持氏が入り、以後室町末期まで六百年にわたり土持氏の居城であった。
 後に高鍋城と改称されるのは、江戸時代の三代藩主秋月種信の頃で、この時大々的に城の拡張と城下町の整備が完成した。
 高鍋城は標高74mの丘陵に築かれ、丘の中腹に本丸、一段下った平地に二の丸、更に下ったところに三の丸を配した縄張りで、丘陵上には三層の櫓が築かれていた。その姿が羽ばたく鶴に似ていることから別名「舞鶴城」とも呼ばれる。
 二の丸跡の石段を上ると、本丸の正門であった長峰門跡を経て本丸跡にでる。政庁と奥御殿があった箇所に本丸政庁跡の標柱が立ち、本丸跡から更に上ると、見事な石垣が部分的に残っている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/8/9


今山八幡宮 Imayama-hachiman-guu Imayama Hachimangu Shrine

Jp En

 延岡市の市街地を一望できる今山。その山頂に今山八幡宮がある。木々が青く生い茂り、真夏でもひんやりとした心地よい清涼感漂う参道を上ると、左右に控える狛犬達が歴史の古さを感じさせる社殿があらわれる。
 今から1250年余り前の天正勝宝二(750)年、時の領主土持直綱が領内の守護神として宇佐八幡宮の分霊を受け、城の鬼門の方位に勧請(かんじょう)したといわれている。
 書物「宇佐大鏡」の記述によると、当時この地は宇佐八幡宮の神領であったことが窺知されており、献納物を納めていたことが明らかで、当時の領地の住民にとって宇佐詣は容易ではなかったが、この勧請により参拝が容易になったといわれている。 合わせて10柱の神々が祀られており、歴代の藩主が領内の守護神社として崇敬した。
 現在は宮崎県北一の大社として、氏神・産土神と仰がれ、多くの信仰を集めている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/5/22


武田八幡神社 Takeda -Hachiman-jinja Takeda Hachiman Shrine

Jp En

 武田八幡神社は山梨県韮崎市神山町に位置する寺社である。
 弘仁十三(822)年、嵯峨天皇の勅令により宇佐八幡を勧請して、武田八幡宮と称したのが始まりとされる。
 武田家初代、信義はこの地で元服を行い、以降武田家を名乗り当社を氏神として崇拝したことから、甲斐武田家の発祥の地とも言われる。祭神は武田武大神(たけだたけのおおかみ)、誉田別命など四柱。
 本殿は天文十(1541)年に武田信玄により再建された。三間社流造、桧皮葺、各所に意匠が施されたもので、国の重要文化財に指定されている。
 総門から真っ直ぐに続く参道に位置する山間の古社であり、往時の武田家が偲ばれる。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/2/12


夏越祭り Nagoshi-matsuri Nagoshi Festival

Jp En

 五穀豊穣と無病息災を祈願する宇佐神宮最大のお祭り、それが「夏越祭り」。別名「けんか祭り」と言われるほど激しい神輿の先陣争いが行われる。御祓会(おはらいえ・みそぎえ)とも言われる。三基の神輿が勇壮に激しく練りながら参道を進むのが見もの。
 初日は、三基の神輿を中心とした神輿行列が上宮から頓宮を目指す「お下り」がある。白装束の男達が神輿を担いで上宮を出発。境内を威勢良く練り歩き、その華麗で勇壮な様子は圧巻。神輿が頓宮に到着すると直ちに御神体が頓宮本殿に移され、御食川の川中に3本の幣串を立てて頓宮の東北隅で夏祭りの「祓」行事の菅貫行事(すがぬきぎょうじ)など古式ゆかしい神事が行われる。
 本来、神輿が出ない中日には若宮神輿担ごう会による神輿担ぎ等があり、最終日は神輿三基が上宮に環御する「お上り」がある。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します




四日市東別院 Yokkaichi-toubetsuin Yokkaichi East Branch Temple

Jp En

 宇佐市には宇佐神宮のある宇佐町と四日市町というふたつの中心がある。四日市町には、真宗大谷派四日市別院(東別院)と浄土真宗本願寺派四日市別院(西別院)という、どちらも大きな伽藍をもつお寺が並んでおり、以前は趣のある門前町が形成されていた。本願寺四日市別院は浄土真宗の九州における中核の寺院で、かつては九州御坊として九州内の全真宗寺院を統括していた。
 東別院は、お東さんとも呼ばれ、1562年に開基された。1868年に一度焼失したが、1889年に再建される。尚、雄大な規模を誇る二重門は焼失をまぬがれ、当時と変わらぬ姿を保っている。東西両別院を含めると、九州最大の木造建築と言える。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します




双葉の里 Futaba-no-sato Futaba's Hometown

Jp En

 不世出の横綱とは双葉山だけに許された称号である。双葉山は1939年に、前人未到の69連勝を成し遂げた。全勝優勝8回、通算優勝12回という成績を残した名横綱・双葉山定次(ふたばやまさだじ)。
 昭和の大横綱として語り継がれる横綱・双葉山の生誕の地である宇佐市には、数々の偉業を讃える「大横綱双葉山像」が建てられている。双葉の里は、この郷土出身の英雄の功績を後世に伝えるため、生家が復元され、幼い頃よく遊んだという浜辺には記念碑や相撲場が整備され、館内には、化粧まわしなどが展示され、資料の展示室となっている。また、休憩所では連勝当時の対戦映像が放映されている。オープン以来、連日多くの双葉山・相撲ファンで賑わっている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します




鶴見古墳 Tsurumi-kofun Tsurumi Ruins

Jp En

 国指定史跡「川部・高森古墳群」(宇佐風土記の丘の古墳群)は、6基の前方後円墳を中心として、周辺に約120基で構成される。それぞれの前方後円墳は地形的には独立した場所に営まれ、その方向もバラバラである。前方後円墳以外の墳墓は耕作などによって墳丘を失い、現状では墓と認識できないものが多いが、前方後円墳を中心に、このように多数の周溝墓が集中する遺跡は大分県内ではここだけ。九州内においても特徴的な遺跡で、規模も宮崎県の西都原古墳群(約320基)に次ぐ。
 「鶴見古墳」は、赤塚古墳に始まる川部・高森古墳群の中で、最後に造られた前方後円墳で、6世紀の中頃に築造された。この古墳は、赤塚古墳の被葬者から代々にわたって宇佐地方を治めた首長の系列を伝える最後の古墳。また、古墳時代後期の葬送の典型的な一例として重要な位置を占めている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



記事数18件: 1~8 件表示     >>     >|  
NIPPON Kichi - 日本吉 - 日本語に切り替える NIPPON Kichi - 日本吉 - to english

モノ・コト・ミル・ヒトで綴る
日本の美意識。

現在の記事 5444
カテゴリーズ
都道府県
キーワードシャッフル
お気に入り
キーワード検索
閲覧履歴



Linkclub NewsLetter