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2008/7/11


西馬音内盆踊り Nishimonai-bon-odori Nishimonai Bon Dancing

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 西馬音内盆踊り(にしもないぼんおどり)は、五穀豊穣や先祖供養を願い、秋田県羽後町の西馬音内地区に伝わる伝統行事。起原は定かではないが、一説によると約七〇〇年前に西馬音に御嶽神社を勧請した折に豊年踊りを踊らせたのが始まりともいわれている。
 昭和五六(1981)年に盆踊りとしては全国で初めて、国の重要無形民俗文化財に指定された。
 笛や太鼓、三味線の囃子が櫓の上で鳴り響く中、未成年の女子は彦三頭巾をかぶり、成人の女性は鳥追い笠という編み笠をかぶって顔を隠し、亡者に変して優雅に舞う。女装した男性の踊り子もいる。
 明るいテンポの「音頭」と、静かなリズムの「がんけ」の二種類の踊り方がある。複雑で難しい足の動きにあわせた手の動きが、なんとも美しい踊りである。
 衣装は代々母から受け継がれてきた端縫いの衣装と決まっていて、衣装の柄やデザインは各自違っている。そこには古い絹や呉服を貰い受けて娘のために作ってきた、母達の長い歴史も物語られている。
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2008/3/10


浄瑠璃 Joururi 

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 浄瑠璃(じょうるり)は、日本の伝統的な音楽の一つで、三味線の伴奏に乗せて太夫(だゆう)が詞章を語るもの。これに人形芝居が加われば人形浄瑠璃となる。詞章が単なる歌ではなく、劇中人物の台詞や仕草までを含み物語のように聞こえることから、浄瑠璃は一般的に「語り物」と呼ばれる。
 室町時代に登場した浄瑠璃御前と牛若丸の恋物語「浄瑠璃十二段草子」が大流行したのをきっかけに、他の物語も同じ節回しで語られるようになり、それらをまとめて浄瑠璃と称するようになった。
 江戸時代になると浄瑠璃は多くの流派に分かれ、広く世間に受入れられて行った。そして貞享元(1684)年、竹本義太夫(たけもとぎだゆう)が大坂道頓堀に竹本座を開設して「義太夫節」を確立すると、名作者の近松門左衛門と組んだこの新しい様式は熱狂的な支持を受け、義太夫節がそれ以前の古浄瑠璃に取って代わるようになった。
 現在、浄瑠璃音楽として残っているのものに、義太夫節、常磐津節、清元節、河東節、一中節、宮薗節、新内節、富本節がある。
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2008/3/6


城端曳山祭 Jouhana-hikiyama-matsuri 

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 城端曳山祭(じょうはなひきやままつり)は、富山県南砺市(なんとし)城端にて、毎年五月の四日・五日に開催されている祭りである。国の重要無形民俗文化財とされている。
 城端は、坂と石垣・小路が多い町で、小京都とも呼ばれている。
 天正二(1574)年、城端神明宮が現・南砺市北野である北野村より勧請され、享保二(1717)年に神輿が作られ、獅子舞や傘鉾の行列も始まった。
 2年後の祭りには曳山が出来、やがて神輿の渡御に供するようになったのが祭りの始まりとされる。
 山車6本はいずれも金泊や多彩な城端塗の粋をつくした、絢爛豪華な屋台式二層の人形山で、それぞれに精巧な庵屋台が囃しながら随行して街を練り廻る。
 庵屋台の中では、笛、三味線の音色にのせて江戸端唄の流れをくむ城端独特の庵唄(いおりうた)が唄われる。
 城端曳山祭は、情趣豊かで典雅な春祭りである。
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2008/2/14


芦野公園 Ashino-kouen 

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 芦野公園(あしのこうえん)は、青森県五所川原市金木町芦野にある面積八〇ヘクタールの自然公園である。
 園内には、文学碑や歴史民俗資料館、津軽三味線発祥の碑のほか、ヒグマや鹿などのいる児童動物園、家族で遊ぶふれあい広場、そして面積五〇ヘクタールほどの芦野湖があり、湖には優雅に浮かぶ芦野夢の浮橋が存在する。
 日本さくら名所百選に選ばれている、二二〇〇本の桜と老松が湖畔に広がる所で、太宰治が少年の頃よく遊んだ場所とされる。
 特に桜の規模は津軽半島でも屈指のもので、毎年四月二九日から五月五日に行われる観桜会は、多くの人出で賑わう。
 また、この期間の一八時からは、桜並木と芦野公園の園内にあわせてぼんぼり一三五個点灯し、幻想的な空間を作り上げる。
 芦野公園は、美しい景観を誇る景勝地である。
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2007/12/14


龍門司坂 Tatsumonji-zaka 

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 龍門司坂(たつもんじざか)は、薩摩の旧街道として知られる大口筋の一部で、全長が一、五キロメートルの坂道である。現在は約五百メートルが当時の石敷きで残されており、近世の交通を考える上で重要な道として考えられ、平成一八(2007)年に国の指定文化財となった。
 この坂道は寛永一二(1635)年に造られ、その後、元文六(1741)年には地元で採れる凝灰岩を利用して付近の山より切り出し、石畳を敷き詰め整備された。幅は広いところで七メートルほどあり、割合と広く感じられる。
 明治一〇(1877)年には、熊本へ向かう西郷隆盛率いる薩摩軍もこの坂を通ったといい、付近の人々が太鼓や三味線で送り出したといわれている。
 杉木立の中にある苔むした石畳にはたいへん風情があり、情緒たっぷりの坂道であることから、歴史の道百選にも選ばれている。
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2007/12/3


おぎおんさあ・かごしま夏祭り Ogionsaa Kagoshima-natsu-matsuri 

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 おぎおんさあ・かごしま夏祭りは鹿児島の夏の風物詩として有名な、鹿児島市天文館地区を中心に繰り広げられる壮大な夏祭りである。
 おぎおんさあ(祇園祭)の由来は平安時代、貞観一一(869)年に日本全国に疫病が蔓延したときに遡る。時の朝廷は疫病の原因は八坂神社の御祭神である素戔嗚尊(すさのおのみこと)の祟りであると、その霊を鎮める御霊会(ごりょうえ)を全国で行った。これが祇園祭の始まりといわれている。江戸時代に入ると庶民の祭りとして定着していった。
 祭りは市を上げて行われ、八坂神社のご神幸行列や夏祭大ハンヤ等など色々なイベントが開かれている。
 近年は三味線、太鼓などによる祇園ばやしも復活し、多くの人で賑わいをみせている。
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2007/11/22


舞妓 Maiko 

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 舞妓(まいこ)とは、大体20歳ぐらいまでの芸妓(げいこ、げいぎ)見習いの若い女性である。
 芸妓とは、花街にて唄や踊り、三味線などの芸で宴席に興を添える事を仕事とする女性で、座敷や舞台に上がる時は白塗りの厚化粧をするが、舞妓は同時に日本髪を結い、華やかな花簪を挿す。
 舞妓とは、芸妓になる前の未成年の少女のことで、舞妓として約5年間修行した後、芸妓になる。
 舞妓・芸妓は京都の祇園をはじめとする花街の置屋(おきや)に所属しており、そこから各お茶屋へ送り出される。
 舞妓の始まりは、江戸時代中期の1700年頃、水茶屋で働いていた茶汲女(ちゃくみおんな)や茶点女(ちゃてんおんな)が始まりだと言われている。
 最初は参詣人に茶をふるまう程度だった水茶屋も、やがて茶が酒になり、茶汲女や茶点女が歌を聞かせ舞を見せ、永い年月を経て舞妓、芸妓になったとされる。
 舞妓は、非常に厳しい独特のしきたりや伝統を持つ職業である。
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2007/10/23


長唄 Naga-uta 

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 長唄(ながうた)は、江戸で歌舞伎音楽として発達した三味線音楽の一種で、劇場に結びついて主に歌舞伎の舞踊の伴奏をつとめた。
 初代・中村勘三郎の弟の杵屋勘五郎(1615~1699)により始められたとされ、語り物である義太夫や清元に比べて、音楽性が高い。
 浄瑠璃の影響を受け、語り物の要素もあり、伴奏には三味線のほかに囃子も加わる。長唄の囃子は能の囃子に用いられる楽器をそのまま流用し、笛、小鼓、大鼓、太鼓で構成される。
 のちには、歌舞伎に関係なく作曲されるようにもなった。
 長唄は明るい声で歌われるので、それに合わせて三味線も軽やかな音色で演奏される。
 代表曲として、「勧進帳」「京鹿子娘道成寺」「越後獅子」「藤娘」「連獅子」などがある。
 長唄は、歌舞伎の伴奏として発展した伝統芸能である。
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