NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/10/4


良寛 Ryoukan Ryokan

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 良寛(りょうかん)は、江戸後期の曹洞宗の禅僧で、歌人、漢詩人、書家としても知られる。
 宝暦八(1758)年、越後国出雲崎(現・新潟県)に誕生。土地の名主で、俳人でもある父から、影響を受けて育った。
 大森子陽の塾で学び、名主見習役を経て、円通寺の国仙和尚のもとで出家。その頃、和歌に親しむようになり、歌人との交流や創作を重ねてゆく。
 三三歳の頃、国仙和尚より印可の偈を与えられる。以後、民衆の教化に努めたが、難解な説法を避け、分かり易い言葉を用いた。特定の寺を持たず、自らの質素な生活を開示することで、民衆の共感や信頼を得ていた。
 良寛の住む五合庵には、実に多くの芸術家や学者が訪れた。般若湯(酒)を好み、自らを慕う人々と頻繁に杯を交わしたと伝わる。
 天保二(1831)年、良寛死去。歌集『蓮の露』を弟子の貞心尼が編んだ。
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2007/10/3


山口 松陰神社 Yamaguchi Shouin-jinjya Shoin Shrine in Yamaguchi

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 松陰神社(しょういんじんじゃ)は、明治二三(1890)年に創建された、明治維新に尽力した、吉田松陰を祀る神社。
 吉田松陰は、29歳で刑死するまで、門下の育成に力を注いだ。その中から、幕末から維新にかけて活躍する、高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、山県有朋などが輩出されている。
 初めは、松陰の兄の家に祀られていたが、昭和三〇(1955)年に現在地に移転し、新たに社殿が造営された。
 本殿の北隣には門下生を祀る松門神社が立ち、境内には松陰ゆかりの史跡や展示館などが点在し、高杉晋作や伊藤博文らが学んだ松下村塾や、松陰が謹慎した際過ごした、幽囚旧宅が保存公開されている。
 萩市で学問の神として最も尊敬を集める神社であり、正月には多くの初詣客が訪れる。
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2007/9/28


植芝盛平 Ueshiba Morihei Morihei Ueshiba

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 植芝盛平(うえしばもりへい)は「合気道」の創始者。明治一六(1883)年、和歌山県生まれ。数学・物理に強く、英雄伝説や奇跡説話に関心を抱く少年だった。
 税務署勤務を経て、文房具店を開業後、古流武術や剣術を習得した。日露戦争に従軍した盛平の銃剣術は、連隊一だった。
 故郷に戻って農業に携わり、開拓移民として北海道へ。農業指導の傍らで、合気柔術を習った。
 父の病気平癒祈願の為に、京都の出口王仁三郎を訪ね、「鎮魂帰神法」の教えを受ける。触発され、京都に移住し、「植芝塾」を開設した。気・心・体がひとつになった「合気武術」を誕生させた。
 盛平の噂は、全国に広まり、多くの軍人や武道家を集めた。その後、東京に道場、茨城県に修練場と合気神社を併せもつ合気苑を建てた。
 海外に自ら出向くなど、晩年まで合気道の指導・普及に身を捧げた。
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2007/6/1


松下村塾 Syouka-sonjyuku Shokasonjuku Academy

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 江戸時代末期の幕末に長州藩士の吉田松陰(吉田松蔭)が講義をおこなった私塾。国の史跡に指定されている。
 松下村塾は木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎で、講義室だった8畳の部屋と、後に門人が多くなり、吉田松陰が増築した4畳半一室、3畳二室、土間一坪、中二階付きの部分から成る。
 松陰の叔父の玉木文之進が天保13(1842)年に自宅で私塾を開き、ついで松陰の外伯父、久保五郎左衛門が継いで、納屋を増改築し、教育を行った。
 安政4(1857)年、28歳の松陰がこれを継ぎ、塾を主宰した。松陰は、武士や町人など、身分や階級にとらわれず門下生として受け入れ、その殆どが身分の低い者達であった。わずかな期間ではあったが、久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、山田顕義、品川弥二郎ら、幕府を倒す、明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの逸材を輩出したことで有名である。
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2006/12/15


適塾 Teki-juku Tekijuku 

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 適塾は蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が、江戸時代後期の天保9年(1838年)に大坂・船場に開いた蘭学の私塾。
この塾では日本を代表する人物、福沢諭吉、大村益次郎、高松凌雲など、幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出した。漫画家、手塚治虫の曽祖父にあたる手塚良仙も門下生の一人であった。
塾は、明治維新後、大坂医学校の開校にあたり、教師・塾生は移籍、その歴史を閉じた。現在は大阪大学医学部であり、日本で一番古くからの医学教育の伝統を継承している。
適塾の建物は現在も適塾管理運営委員会の管轄の下で保存されている。建物の右隣には、緒方洪庵の銅像がある。二階には塾生の部屋があり、その柱には無数の刀傷が残っている。これはおそらく、ここで激論の末にできた傷だと言われており、その時代の人物、背景が伺われる。
昭和39年(1964)国の重要文化財に指定されている。
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2006/11/29


開明学校 Kaimei-gakkou Kaimei School

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 1882年に愛媛県、西予市に建築された、当時としては珍しいドイツ製のガラスがはめられたアーチ窓がある擬洋風なモダンな校舎。1997年に国の重要文化財の指定を受けた。
 現在は貴重な資料約6,000点が収蔵された博物館としても利用されている。内部には江戸から昭和初期にかけての教科書や学校経営資料などが展示されている。年に1度、「遊べや学べ明治の学校」と銘打った1日体験入学もある。
 開明学校の外見は「小さな蔵」を思わせるような白壁造り。入り口は「唐破風」で、懐かしさが漂う日本の伝統的木造建築。
 開明学校の前身となった私塾「申義堂」(開明学校の右手に建つ)では、この地ゆかりの人物で有名な「シーボルト」、その弟子「二宮敬作」などが集まっていた。またシーボルトの娘「お稲」は14才から二宮に医学を学び、日本初の「女医」となった。
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