NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/5/12


足利学校 Ashikaga-gakkou 

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 足利学校(あしかががっこう)は、栃木県足利市にある国内唯一、日本最古の学校である。
 創設時期に諸説はあるが、平安時代(794~1185)初期、または鎌倉時代(1185~1333)とされており、室町時代(1336~1573)から戦国時代(1467~1573)にかけて、関東における最高学府であったとされる。
 天文年間(1532~1555)には、約3000名ほどの学徒をかかえ、フランシスコ・ザビエルにより「日本国の中で最も大きく、最も有名な板東の大学」として世界に紹介されたという。
 江戸時代(1603~1867)末期にその役割を終了し、明治五(1872)年をもって廃校になった。
 約5500坪もの敷地に、入徳門・学校門・杏壇門の三門と孔子廟・方丈などの建物が佇んでいるといわれる。 
 昭和五七(1982)年になって、足利市が「史跡足利学校跡保存整備事業」に着手し復元され、平成二(1990)年に、江戸中期の姿に甦ったという。
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2007/12/25


湯島聖堂 Yushima-seidou 

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 湯島聖堂は元来、儒学の学校に付随して建てられていた、孔子を祀る孔子廟(こうしびょう)であった。
 江戸初期の儒学者・林羅山(はやしらざん)が、私邸であった現在の上野恩賜公園内にあった孔子廟「先聖殿」を移築し、それが後に綱吉によって「大成殿」と改称され、付随する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めたのが、湯島聖堂の由来である。この林家の私塾はやがて官立となり、昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)となった。
 明治時代に入り、学問所は大学校、大学と改称されながら残されていたが、明治四(1871)年に文部省が置かれることに伴って廃された。
 湯島聖堂は度重なる大火に見舞われ、再建も重ねてきた。大正一二(1923)年、国の史跡に指定された翌年に、関東大震災が起き、ほとんどを焼失してしまったという。昭和一〇(1935)年に現在の鉄筋コンクリート造りに再建された。
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2007/12/20


【信】 Shin Trust, Trustworthiness, Belief

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 人偏と言をあわせた字体で、この組みあわせでは古文に初めて登場します。
 「言」はすでに甲骨文に見られます。「吉・哲・仁」の字説にもあるように、下の部分は口、祝詞を入れる器の意味です。その上の四つの横線の意味は、常用字体からはわかりにくいのですが、「清」の字説にある文身と刺青文化と関わりがあり、刺青を入れるための取手が付いている針の道具の形を表しています。したがって「言」はただの軽い言葉でなく、祝詞の器の上に針を置き、神への約束・誓願を守れない場合には刺青の罰を受けることを意味します。そこにはもともと神に逆らうという背景があり、人偏が加わると古代社会にあった体罰の一つであった刺青とも位置づけられます。
 一般的な孔子像とは対照的に、白川静先生の説によると孔子は巫女の庶子でありました。神々の世界をあまり話題にしなかった孔子ですが、論語・顔淵第十二などにも基づいて、「信」は社会政治概念になっていきました。日本では古義学の元祖伊藤仁斎(1627-1705)が信の尊さを改めて指摘しました。また、政治に食・兵・信のうちどれが一番大事かと聞かれた孔子は「食が兵より大事だが、民からの信が絶対に欠かせない」という信条を唱えました。確かに、民や個人が信念のために断食することは宗教と政治の戦いによく見られます。
 
■ 信・篆文(てんぶん)
■ 言・甲骨文(こうこつぶん)
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2007/10/15


【仁】 Nin,Jin Humaneness, Benevolence

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 昔から、中国・越南(現在のベトナム)・韓国・日本などに、広く伝わる東洋思想の代表的な倫理概念です。それは孔子の教えや儒教が広がったからです。この字がまったくの抽象的な概念になる前の経緯が気になります。確かに孔子の時代にはすでに漢字の原点についての詳しい知識が失われていたので、そういう意味では操作・利用しやすい字でもありました。
 「にんべんと二という数字の組み合わせではないか」という俗説がよく聞かれます。「二人の間」から「人間の間の倫理」という意味にまで抽象化され、仁義礼智信という儒教の根本概念の一つになったという説があります。確かに、旧字体はにんべんですが、右の部分の解釈が大事になってきます。
 実は漢字の中に数字がそのままの意味で要素として表現されることはありません。旧字体でない常用漢字の字形に見えても、抽象的なものが漢字の中の要素として表現されるという考えは俗説の特徴です。
 例えば、「悟」に出てくる「五」の部分も数字とは関係がなく、その下の「口」が表す祝詞の器をしっかりと閉めている木製の二重蓋を表しています。また人間二人を示すのには「比」という字などがほかにあります。
 基本的に漢字に出てくる要素は人・物です。古代社会にあったものですから、にんべんの形は人間が座ろうとする時の姿、そして右の部分はその敷物だと考えられます。東洋なので、椅子ではなく、敷物・古代の座布団のようなものです。そのことから仁という抽象倫理概念までのちょっと違う道筋があきらかになります。つまり人に敷物をすすめるという心です。
 まさにホスピタリティー、お客さん・たずねびとへの配慮のような心構えではないでしょうか。本来はそういう温かい気持ちをあらわす概念なのです。
 
■ 仁・金文(きんぶん)
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2007/9/14


【環】 Kan The Character for Cycle, Ring, Surround

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 環境の環。その形がなかなか深い意味を語っています。上の部分は目です。その下に衣と○があります。○は玉。この三つの要素を含む字体のほかに、さらに強調のために玉偏(たまへん)をつける字体もあります。玉偏自体は三つの玉を貫く紐の形です。
 この字は実は古代の葬儀、死者の復活思想、信仰と関係があります。上の目は開いているので、死者の復活を願う象徴です。古代には死者に玉の賜物を副葬品として添える習慣があったのです。この字はその玉を衣服の襟元に置いた形です。玉を死者の口に含ませることもあり、それは「含」という字になりました。
 白川静先生の著作、『孔子伝』などにもしばしば出てくる荘子の『荘子(南華真経)』に、こういう様々な古代の習慣がよく取り上げられています。もちろんむしろ否定的に。例えば、『荘子(南華真経)』外物篇に道徳的よりどころであるはずの『詩経』と『禮経』の墓と副葬品などの詳しい記述を頼りに、墓を盗掘したり、死者に添えた玉を奪おうとする儒者のことが風刺的に描かれています。
 また白川先生が、日本の代表的な哲学者である西田幾多郎には、漢字の世界をある意味で哲学化した荘子の影響がかなり見られると指摘されているように、そういう背景から見ると漢字には古今を結ぶ一面があります。
 人類の生死に関わる環境。健全な環境の保持を考えるにふさわしい字ではないしょうか。
 
■ 環・金文(きんぶん)
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2007/8/10


白川静 ShirakawaShizuka Shizuka Shirakawa

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 漢字研究の世界的第一人者。
 明治四十三(1910)年、福井生まれ。十代半ばから漢学に親しみ基礎を築く。
 昭和四五(1970)年に「漢字」を上梓。漢字学の通説を覆す独自の視点を獲得する。
 中国の思想・文化を斬新な解釈で綴った「詩経」「金文の世界」「孔子伝」の 刊行を経て、昭和五九(1984)年に「文字」の成り立ちをまとめた字源辞書である「字統」に到達。その後も「漢字」に呪術的な世界観を見出すという独自のアプローチが展開され、「字訓」「字通」を刊行、漢字学三部作は完成した。
 平成9(1997)年に、文字文化研究所所長に就任。翌年に文化功労者として顕彰される。
平成一五(2004)年には文化勲章を受章。平成一七(2006)年十月三〇日、九六歳で逝去。白川静の漢字宇宙
への飽くなき探求は、多くの研究者たちに引き継がれ、発展を遂げている。
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2007/2/28


弘道館 Koudou-kan 

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 江戸時代後期に日本の常陸国水戸藩に作られた藩校。
 天保12(1841)年、烈公(徳川斉昭)により、水戸城三の丸に開かれた。敷地の総面積は約2万平方メートル。正庁を中心に右に文館、左に武館を配し、天文・数学・地図等の館と、養牛場・薬草園を持つ医学館などが立ち並び、総合大学の偉容を示していた。
 現在は、茨城県営の都市公園の1つである弘道館公園(こうどうかんこうえん)となっている。国の特別史跡に指定されており、正庁・至善堂・正門は国の重要文化財に指定されている。
 敷地西側の大半は武術調練場と馬場で、中央の広場の梅林の中に鹿島神社と孔子廟が祀られ、早春には構内外で美しい梅の花が見られる。
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2006/12/15


九年庵 Kunen-an Kunenan 

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 九年庵は、佐賀の大実業家、伊丹弥太郎が明治25年から9年の歳月をかけて築いた6800平方メートルの別荘と庭園だ。佐賀県神崎町に位置する。
 別荘は入母屋葦葺の屋根に杉腰張りの土壁、竹格子の連窓や真竹を用いた周りの濡縁など、野趣に富む外観を持つ。広い庭園は多くのツツジやモミジ、コケ類が植生し、四季折々の美しい景色を描き出している。紅葉も見ものだが、庭一面に広がるコケはまるでビロードの絨毯を敷き詰めたかのような侘び寂びの趣を持ち、こちらも必見だ。
九年庵は平成7年2月、国の名勝に指定を受け、毎年紅葉の時期に9日間(11月15日から23日)、一般公開される。
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