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2008/3/6


興福寺 大湯屋 Koufuku-ji Ooyuya Kofuku-ji Temple, Ooyu-ya Bathhouse

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 興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町にある法相宗大本山の寺院である、藤原氏の氏寺である。本尊は釈迦如来で、西国33箇所第9番、西国薬師霊場第4番札所とされている。
 天智天皇八(669)年、藤原鎌足夫人により現在の京都市山科区に山階寺(やましなでら)という名称で創建され、和銅三(710)年、藤原不比等によって現在地に移転、興福寺と改称された。
 大湯屋(おおゆや)は、五重塔の東方に建っている中世の風呂で、創建年代は不明であるが、現在のものは応永三三(1426)年頃の再建とされ、国の重要文化財に指定されている。
 南北四間・東西四間の本瓦葺で、西側は入母屋造、東側は切妻造となっており、中には口径136cmの大きな鉄の湯釜が2基存在し、沸かしたお湯から立ちのぼる蒸気にあたる蒸し風呂となっている。
 中世以後は、大衆蜂起の衆議所としても使われた。
 興福寺の大湯屋は、中世の浴室建築として大変貴重な建物である。
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2007/8/23


尾張万歳 Owari-manzai Owari Manzai

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 愛知県知多市に伝わる「尾張万歳(おわりまんざい)」は「知多万歳」とも呼ばれ、平成八(1966)年に国の重要無形民俗文化財に指定された伝統芸能である。
 鎌倉時代の正応年間(1288~1293)、現在の名古屋市東区矢田町にある長母寺(ちょうぼじ)を開いた無住(むじゅう)国師が、寺に仕える村人に法華経を覚えやすいように歌えるものにした「法華経万歳」が起原とされている。
 伊勢・紀伊・遠江・木曽などを廻った尾張万歳は大衆にも受け、各地の万歳にも影響を与え大正時代には隆盛を極めた。
 扇子をかざして祝詞を言い立てる太夫(たゆう)一人と、小鼓で合いの手を入れる才蔵(さいぞう)一人が二人一組になって演じるのが基本であるが、才蔵の数を四人に増やしたり、楽器も三味線や胡弓を加えたり、と現在は華やかな舞台向けの芸として伝承されている。
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2007/8/17


播州歌舞伎 Banshuu-kabuki 

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 播州歌舞伎は、江戸時代の元禄年間(1688〜1704年)に、兵庫県加西市北条の高室地域ではじまった高室歌舞伎の流れを組む、千三百年の歴史を持つ「農村歌舞伎」である。
 高室座は昭和十二年頃に廃れたが、現在では兵庫県多可郡中町に本拠を置く嵐獅山一座がその伝統を受け継いでいる。
 播州歌舞伎の魅力はなんと言っても、練りに練ったオーバーアクション。斬られて死ぬ場面でも、ちょっとやそっとでは死なない。「播州歌舞伎は泥臭いもの。観客と役者がわあわあと楽しむ。それが大衆演劇だ」と、播州歌舞伎の継承者、中村和歌若氏は語る。
 現在では、「播州歌舞伎」は嵐獅山一座のブランド名となり、全国にもその名が知られている。昭和四八年には、東京の国立劇場にも出演した。
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2007/8/14


阿久戸神楽 Akuto-kagura 

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 宮城県北部から岩手県南部にかけて、南部神楽が伝えられている。現在、約80にも及ぶ大小様々な団体があるという。この地方で古くから祈祷のために踊られていた山伏神楽。それが明治時代になり、一般民衆によって踊られるようになったものが、南部神楽の原型といわれている。
 栗原市に拠点を持つ阿久戸神楽(あくとかぐら)も、そんな南部神楽の流れを汲む神楽のひとつ。得意とする演目である、一ノ谷の戦いで有名な「鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)」で、源義経役が使用する扇は180度に開く。骨は20本以上もあると思われるが、こうした扇は市販されておらず、各団体が独自の工夫を凝らして製作している。
 東北地方には、地域に根ざした多彩な民俗芸能が伝えられてきた。それらは今もなお、人々の情熱によって育まれ、伝承が続けられている。中でも神楽は、今日もどこかで演じられている、大衆芸能の代表格と言える。
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2007/5/7


高知 不破八幡宮 Kouchi Fuwa-hachimanguu Fuwa Hachimangu Shrine

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 高知県四万十市にある八幡宮。今から520年前、摂関家の一条公が応仁の乱を避け荘園経営のため中村に開府したとき、幡多の総鎮守として、一条家守護神として山城国石清水八幡宮を勧請したものである。正八幡、広幡八幡といわれる。
 三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の柿葺(こけらぶき)の本殿は永禄元(1558)年の再建で、重要文化財となっている。
 不破八幡宮神社の神事は、庶民大衆の生活指導を目的としたものが多く、やぶさめは武勇の指導を、そして当時盛んに行われた「嫁かつぎ」の風習を矯正するため八幡宮と一宮神社の神様の結婚式を祭典神事に折り込んで行った。また、祭典運営にあたっては、その土地々々の産物を利用して、産地の興隆と質素倹約をはたしつつ盛大な祭りに仕立てていった。
 祭りの様々な意義と美意識が融合した姿を見ることができる神社である。
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2007/3/5


三川内焼 Mikawachi-yaki 

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 16世紀末の豊臣秀吉による朝鮮出兵に参加していた、土地の支配者が、朝鮮から連れ帰った陶工に窯を焼かせたのが起こり。明治維新まで平戸藩の御用窯として栄え、平戸藩が窯の経営を行っていた時代、天草地方で陶石が発見され、技術・技法が飛躍的に発展した。その伝統は今も受け継がれ現在14の窯元がある。
 唐子絵は唐の子どもたち(唐子=からこ)が松の木の下で牡丹に飛ぶ蝶と戯れている様子が描かれている。当時は、描かれた唐子の人数により用途が異なっていた。7人唐子は将軍家や朝廷への献上品の献上唐子とよばれ、5人唐子は藩用、3人唐子は一般大衆用とされた。
 透かし彫りは彫刻で、金属・木・石などの薄板を打ち抜いて模様をあらわす技法。また、その彫刻したもの。 
 欄間の彫刻、刀剣の鍔(つば)などに見られ、色々な焼き物などで使われる技法として有名である。
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2007/2/1


大堀相馬焼 Oobori-souma-yaki Obori-soma Ware

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 大堀相馬焼は、福島県浪江町大堀にて焼かれる陶器である。
 1690年、相馬藩藩士・半谷休閑の下僕、左馬によって創始されたと言われている。
 相馬藩が焼き物作りを保護、育成したため、江戸時代末期には100軒近い窯元があり、大衆向けの民窯として親しまれた。
 しかし、明治時代以降は少しずつ数が減り、現在では24軒の窯元が300年の伝統を守る陶器を作り続けている。江戸の昔から庶民の焼き物として親しまれてきた陶器である。
 大堀相馬焼では、青ひびと呼ばれる、青磁釉を使ったひび割れ模様の入った陶器を主に作製している。ほかに、二重焼、走り駒などが特徴である。
 昭和五十五(1978)年、国の伝統的工芸品に指定される。
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2007/1/31


奈良 面 Nara Men Kogakumen Masks

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 奈良の「面」は、正倉院、法隆寺、東大寺、春日大社に現存する伎楽面・舞踊面などの優れた古楽面、室町時代に完成された能、狂言面を鑑賞用に作られたもの。現在では模造品を土産物店で手軽に購入できる、奈良の伝統工芸品である。
 古楽面は、飛鳥時代に仏教とともに仏教美術のひとつとして日本に伝えられた。最初は伎楽と共に「伎楽面」、続いて雅楽の「舞楽面」、そして大衆に功徳と法悦を与えるための行事に用いる「行道面」が伝来した。その後、日本で能楽や狂言が発生し数多くの種類の面が生み出され、その古楽面の多くが奈良の社寺や正倉院などに残されている。 
 時代の推移とともに、奈良の古楽面は衰退の危機に陥ったが、近代の古典ブームの再来により、鑑賞用の室内装飾品として高い評価を得、今では広く百貨店などでも扱われている。また、奈良には、能・狂言にも使い得る木彫の面を制作する作家も活躍しているという。
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