NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/26


等持院 Touji-in 

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 京都市北区の臨済宗天龍寺派の禅寺、等持院(とうじいん)は足利家の菩提寺として知られている。
 暦応四(1341)年、足利家と縁のあった夢窓疎石(むそうそせき)を開山として足利尊氏によって等持寺が創建された。尊氏の死後、寺は菩提所となり、名前を等持院に改められた。
 寺に入るとまず目に入るのが、禅宗の祖師である達磨大師の大きな襖絵である。
 開祖の疎石は多くの庭園を設計したことでも知られており、等持院の東庭も疎石作庭とされている。室町時代の回遊式の庭園は、国の特別史跡及び特別名勝に指定されている。紅葉に囲まれた庭園の眺めはまた格別である。
 霊光殿と呼ばれる納骨堂には、尊氏が信仰した弘法大師作の地蔵尊像を中央に、達磨大師像、疎石の像が祀られている。そしてさらに両側に足利家歴代の将軍達の木像がずらりと安置されており、その様子は圧巻である。
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2008/3/7


乾坤院 Kenkon-in 

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 乾坤院(けんこんいん)は、水野家の菩提寺として知られ、室町時代中期の文明七(1475)年に緒川城の守護を目的に初代城主・水野貞守(みずのさだもり)を開基として作られた。
 創建時、緒川城から見て、ここが坤(南西)の方角の中間に位置したためその名が付いたとされている。また、乾坤が壮大な宇宙を意味することから、山号を「宇宙山」とした由来があるようだ。
 水野貞守は、延文五(1360)年に小河の地で守護土岐氏に攻められて滅亡した小河氏の末裔。のちに四代・水野忠政の娘於大(おだい)は岡崎の松平広忠との婚儀が整ったが、これは水野氏とつながることで松平氏は身の安全を図る、いわゆる政略結婚であった。その後、於大は後の徳川家康となる竹千代を出産する。水野忠政が徳川家康の外祖父となって以来、乾坤院は権勢を誇り、経済的基盤が確立していった。
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2008/2/7


お吉が淵 Okichiga-fuchi 

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 お吉が淵(おきちがふち)は静岡県下田の生沢川にある深淵である。唐人お吉(とうじんおきち)で有名なお吉が身を投げたことからこの名がつけられた。
 評判の芸妓であったお吉は、一七歳の時、幕府の策で恋人の鶴松との仲をさかれ、日本初のアメリカ領事館の総領事タウンゼント・ハリスの世話役を命じられた。ハリスの帰国後は唐人に仕えた女と嘲笑され、一時は、結婚して小料理屋も開いたが、やがて、病苦と貧困の果てにこの淵に身を投げたといわれる。
 身寄りのなかったお吉の亡骸は近くの宝福寺の住職が供養し、宝福寺はお吉の菩提寺となった。
 昭和三〇年代に、付近の人々によりお吉堂が建立され、宝福寺のお吉の墓も新しくされた。
 毎年お吉の命日には祭りが開かれている。また、宝福寺のお吉の墓には今でも芸能人をはじめ多くの人が訪れている。
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2008/1/8


寛永寺 五重塔 Kanei-ji Gojuu-no-tou 

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 東京都台東区の上野公園に寛永寺の五重塔がある。
 寛永一六(1639)年の建立。上野東照宮の建物の一部であったが、明治の神仏分離によって寛永寺の所属となった。
 寛永寺の創立者は徳川家光、初代住職は天海、本尊は薬師如来である。日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇った。
 境内は現在の上野公園のほぼ全域を占め、墓地には徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍一五人のうち六人が眠る。
 しかし慶応四(1868)年の上野戦争で主要な伽藍は焼失されてしまう。
 五重塔は、旧本坊表門や清水観音堂などのいくつかの建物とともに焼失せずに残った。
 構造は三間五重塔、五重銅瓦葺からなり、全層が和風造りである。高さは地上から一番上の宝珠まで、36・36メートル。一層の中央、心柱をかこんで、東西南北に薬師、阿弥陀、弥勒、釈迦の四方四仏を安置している。
 明治四四(1911)年、国指定重要文化財となった。
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2007/12/11


青梅 海禅寺 Oume Kaizen-ji 

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 青梅市二俣尾にある海禅寺(かいぜんじ)は、辛垣山(からかいやま)の南麓にある。本尊は釈迦如来で、本山を永平寺と総持寺とする曹洞宗の寺で知られる。
 寛正年間(1460~1465)この地に草庵ができたのが始まりである。当時、奥多摩を支配していた三田氏の菩提寺として、三田綱秀が天文年間(1532~1554)に再興したが、その後三田氏は二俣尾の辛垣城で北條氏照により滅ぼされ、兵火により全山焼失した。その後、天正三(1575)年に復興され勅願所に列せられ、江戸時代には寺領一五石を拝領し、京に末寺を持つほどに栄えた。
 参道の途中に青梅線が走るようになってから、道路わきに慶長一七(1612)年建立の総門が移築された。青梅線の踏切を渡ると、石垣が続いており、季節になると朱色のつつじが斜面を彩る。
 石段の上には、寛政五(1793)年に建てられた山門がある。また本堂は火災により焼失し、平成四(1992)年、復元し再建された。
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2007/12/6


浄感寺(長八記念館) Joukan-ji(Chouhachi-kinen-kan) Jokanji Temple (Chohachi Memorial Museum)

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 浄感寺(じょうかんじ)は、静岡県賀茂郡松崎町松崎にある浄土真宗本願寺派の寺である。本尊は、阿弥陀如来。
 永仁年間(1293~1299)に創建され、浄信上人によって開基された。元禄の大火で全焼してから衰退していたが、本多正観によって本堂が再建され、隆盛を取り戻したとされる。
 寺の本堂が、長八記念館(ちょうはちきねんかん)となっている。
 入江長八は、漆喰細工の名人とうたわれた左官職人で、江戸に多くあった代表作はそのほとんどが震災や戦災で焼失してしまったが、ここには長八の傑作として有名な、天井に描かれた「八方睨みの龍」や、「飛天」など約20点の作品が残っている。
 また、境内には長八の墓と胸像、記念碑が立つ。
 浄感寺は、長八の菩提寺であり、古来より災いを除き幸運を招く寺としても名高い寺院である。
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2007/10/31


智積院 Chishaku-in 

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 智積院(ちしゃくいん)は、千葉の成田山新勝寺、神奈川の川崎大師平間寺、東京の高尾山薬王院の大本山など、全国にある約三千の寺を有する真言宗智山派の総本山である。ここは、豊臣秀吉にとって初めての子であった棄丸(すてまる)の菩提寺とした祥雲禅寺(しょううんぜんじ)の跡として知られる。
 また、桃山時代の長谷川等伯(はせがわとうはく)作による「楓図」、その子・久蔵(きゅうぞう)作による「桜図」といった金碧障壁画が、客殿を鮮やかに飾っている。いずれも国宝に指定されており、迫力ある美しさに人々が足をとめる。
 「利休好みの庭」と伝わる名勝庭園は、豊臣秀吉が建立した祥雲禅寺の時に原形が造られた。この庭園は、中国の廬山(ろざん)をまねてつくられた池泉鑑賞式庭園で、床の下まで深緑の池が入り込む形になっている。滝や石組み、斜面の植え込みなど、小さい庭園ながらも様々な景色をみることができる。
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2007/10/24


青陰城 Aokage-jyou Aokage Castle

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 青陰城は、広島県尾道市因島田熊町にあった山城である。
 南北朝時代、北朝の小早川氏と南朝の河野氏が因島で激突したとき、北朝方である小早川氏に対抗する伊予衆が、東にある堂崎山城の防御の一環として築いたのではないかと言われている。
 村上水軍の地であった瀬戸内海に浮ぶ因島には、たくさんの中世の城跡があるが、この青陰城は、因島の中西部、標高277mの青影山の山頂にあり、因島村上水軍の本城となった。築城は村上三郎左衛門義弘と伝えられる。
 以後、270年間、因島村上氏によって支配されたが、関ヶ原の合戦の後、慶長五(1600)年頃に廃城となった。
 現在、平坦な本丸跡や館跡、石垣の一部などが残っている。また、青影山の北方にある金連寺は、因島村上氏の菩提寺で歴代の墓塔が残されている。
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