NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/8/21


深緋・黒緋(コキアケ・クロアケ) Kokiake/Kuroake(kokiake/kuroake) 

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 闘争心をかきたてるような燃え盛る赤い色は、戦国武将など、多くの日本人に好まれてきた。朱や茜、紅花、蘇芳など、さまざまな染料を使って少しずつ異なる赤が染め出されるようになると、より鮮やかで濃い赤色が求められるようになった。
 緋色(ヒイロ)は火色とも呼ばれ、濃く明るい黄味がちの赤色・深紅色を表す。緋(ヒ・アケ)という字は、左右に羽がぱっと開くほど目が覚めるような、鮮やかな赤い色の糸や布という意味を持つ。
 緋色から生まれた色名のひとつである「深緋」は、ふかひ・こきひ・こきあけとも呼ばれる古くからある色名である。また同じ色を表す色名には、黒緋(クロアケ)というのもある。
 深緋・黒緋は茜にさらに深みを出すために紫根が加えられた。深緋は、古代の衣服令で四位の色と定められており、それ以外の人には禁色となっていた高貴な色である。
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2008/6/26


吉田城(今橋城) Yoshida-jou(Imabashi-jou) 

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 吉田城(よしだじょう)は、別名・今橋城(いまばしじょう)とも呼ばれ、永正二(1505)年、今川方であった牧野古白(まきのこはく)によって築城された。
 近隣の豪族との抗争を繰り返し、天文一五(1546)年になって今川義元が城代を置いた。
 戦国争乱の世の中で、東三河の要であった今橋城は、戦国武将が激しい攻防を操り返す中で、名前を今橋から吉田と改めた。
 永禄八(1565)年、徳川家康は今川氏の最大拠点であった吉田城を攻略し、酒井忠次を置いた。
 そして天正一八(1590)年、徳川家康の関東移封により、池田輝政が一五万二千石で入城、城下町の整備などをおこなったが、慶長五(1600)年の関ヶ原の戦いの後、播州姫路に所替えとなった。
 現在、吉田城跡のある豊橋公園には、本丸跡に復元された三層の隅櫓があるほか、石垣や空堀、土塁などが残されている。
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2008/6/4


春日山城(鉢ヶ峯城) Kasugayama-jou(Hachigamine-jou) 

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 標高一八〇mの鉢ヶ峯に日本海を見下ろすように築かれた春日山城(かすがやまじょう)。越後の戦国武将・上杉謙信の生誕の城である。鉢ヶ峯城(はちがみねじょう)とも呼ばれれるが、築城時期については定かではなく、南北朝時代に越後国守護・上杉氏が詰め城として築いたという説がある。
 永正年間(1504~1518年)には、上杉謙信の父である越後守護代・長尾為景(ながおためかげ)が居城し改修を施し、天文一七(1548)年に、家督を継いだ謙信が入城し、さらに大城郭へと改修を加えた。
 その後、上杉氏は会津へ国替えとなり、堀氏の代となったが、難攻不落の山城は政には不便であったため、現在の上越市港町に新たに築かれた福島城の完成と同時に春日山城は城としての役目を終えた。
 春日山城は石垣の代わりに、自然の起伏を活かした空堀や土塁を持ち、また天守閣の代わりに周囲の山々に砦を築いたという、非常にスケールの大きい城であった。山頂からの大パノラマと共に戦国ロマンを満喫できる城である。
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2008/5/14


小松城 Komatsu-jou 

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 小松市の中心部にある小松城(こまつじょう)は、天正四(1576)年一向宗の宗徒であった若林長門(わかばやしながと)が、戦国武将の越前朝倉氏と戦うため、築城した平城である。
 柴田勝家に攻められて落城した後、村上氏、丹波氏と城主が替わった。
 元和元(1615)年の一国一城令の例外として、加賀藩三代目藩主、前田利常の隠居城として居城が認められ、城の大改修も許可されたことで知られている。
 小松城は別名を芦または浮城といい、それは梯川(かけはしがわ)の蛇行を巧みに利用した構造になっていたためである。それにより、湿地に浮かぶ城は外敵に対する防備も固かったとされる。
 戦後堀も全て埋められたが、天守台の石垣が当時の姿を偲ばせている。
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2008/5/1


福井城 Fukui-jou 

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 戦国武将、柴田勝家(しばたかついえ)が、越前一向一揆を鎮圧した功績を称えられ、信長より与えられた北ノ庄城。かつて北ノ庄の砦といわれたその城が福井城の始まりである。
 江戸時代には、徳川家康の次男、結城秀康が入城し、慶長六(1601)年から六年の歳月をかけて壮大な天守を建て、その高さは約三〇mにおよび、堂々たるものだったという。
 その後、第三代藩主となった松平忠昌(まつだいらただまさ)が縁起をかついで、北ノ庄を「福居」と改名し、やがて「福井」と呼ばれるようになった。
 現在では外堀は完全に埋められているが、水で満たされた幅広い内堀や堂々たる石垣が残されている。本丸跡には県庁などが建設されており、立派な風格が感じられ、近世城郭の姿へと想像をかきたてる。
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2008/4/22


もののふ(MONONOFU) mononofu Mononofu

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 サムライではなく、「もののふ(MONONOFU)」。自由で革新的な戦国時代の雰囲気を表現・発信する戦国ブランドである。
 現代アートの推進と伝統工芸の復権。そんな相反するかのように見える2つをさりげなく、しかし大胆に結びつけたのは歴史好きの一サラリーマン。
 国立博物館で変わり兜を見た田中秀樹氏は、これまで知らなかった世界を知り、圧倒されるとともに、その時興味を持っていたインディーズTシャツとのコラボレーションを考えたという。
 変わり兜が戦国武将の美意識であり、自己主張なら、様々なクリエイターが素材やデザインにこだわる現代のTシャツも自己表現の一つ。それならTシャツの中に変わり兜のデザインを取り入れていくことも可能である。また、もし現代に戦国武将たちがよみがえったら、自らの美意識で今の様々な素材やデザインを取り入れていくに違いない、とプロデューサーの田中氏は語る。
 現在、「天下『布』武プロジェクト」を推進中。
[→より詳しい記事を見たい方はこちら]
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2008/4/15


美濃焼手描きチョーカー Minoyaki-tegaki-choukaa 

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 戦国武将・古田織部(ふるたおりべ)は、茶人であり、茶器製作・建築・造園などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。
 その織部に愛された美濃焼(みのやき)は、この時代にそれまでになかった自由な発想で登場し、美濃桃山陶とも呼ばれる。
 美濃焼手描きチョーカーは、一つひとつ手描きの模様がとても繊細で、温かみがある手作りの品である。
 全て手作りのため、多少のサイズの誤差、形の不揃いなどがあるが、同時にそれは全く同じものはないと言う事であり、自分ひとりだけのチョーカーとして楽しむ事が出来る。
 美濃焼手描きチョーカーは、首もとを飾る、シンプルでおしゃれなアクセサリーである。
 
トップのサイズは直径14mm
紐の長さ約42cm
アジャスター5cm
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2008/2/21


猩々緋色(ショウジョウヒイロ) Shoujouhi-iro 

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 猩々緋色(しょうじょうひいろ)は日本古来の伝統色のひとつで、極めて鮮やかな赤色のことである。染料の原材料はケルメスという昆虫であったが、その後ケルメスより更に色の強いコチニールカイガラムシが使われるようになったといわれている。
 「猩々」とはオランウータンの和名でもあるが、元々は中国の伝説上の動物を指すといわれている。猩々は猿に似た、酒を好む動物で、顔だけでなく体毛も赤いと言われている。日本では猩々が能の演目としても定着しており、歌舞伎や日本舞踊でも演じられている。猩々緋色はその猩々の鮮明な赤い色に由来している。
 戦国時代の武将に大変好まれた色といわれており、南蛮船で猩々緋色に染められた、羅紗(らしゃ)という毛織物が輸入されるようになると、裾の長い羽織物として好んで着用したといわれている。
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