NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/9/12


相国寺 Shoukoku-ji 

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 相国寺(しょうこくじ)は、金閣寺や銀閣寺をはじめとして、約一〇〇の末寺を擁する臨済宗相国寺派の大本山である。
 室町幕府三代将軍の足利義満が、後小松天皇の勅命をうけて、明徳三(1392)年に完成した広大な寺院で、夢窓疎石(むそうそせき)を開祖として建立された。約一〇年をかけて建立されたが、応仁の乱の戦火により焼失してしまう。度重なる災難にも関わらず、幾度も再建され多くの高僧を輩出した。
 わが国最古の法堂は、入母屋造りの唐様建築で、本尊の釈迦如来は運慶の作といわれている。仏殿や金堂は存在せず、この法堂が仏殿を兼ねている。
 天井に描かれた「蟠龍図」は狩野永徳(かのうえいとく)の嫡男である狩野光信(かのうみつのぶ)の作である。見る角度により、龍の顔や眼が動くように見えるのが特徴で、この絵の下で手をたたくと、堂内にその音が響き渡り、その音がまるで龍が泣いているかのような声に聞こえたことから、通称「泣き龍」とも呼ばれている。
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2008/4/11


剣道 Kendou 

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 剣道(けんどう)とは剣術の竹刀稽古を競技化した武道である。
 平安時代(794~1185)の中頃に日本刀が出現し、室町幕府以降には、剣術の高度化が進み洗練された刀法が確立されていったとされる。
 江戸幕府以後、剣術は人を殺傷技術から武士としての技芸や精神鍛錬の目的が強くなり、竹刀稽古が盛んになった。大正八(1919)年、剣術から「剣道」と改名され、庶民にも広まっていった。
 選手の服装は剣道着と袴(はかま)を基本とし、防具として垂れ・胴・面・小手の剣道具を着用する。試合場では一辺9~11メートルの正方形ないし長方形の中で二人が向き合い、竹刀で防具の決められた箇所を打ち、技とする。
 一切の無駄を省いた姿・形の美は、現在にいたるまで老若男女を問わず人気の武道であり、昭和四五(1970)年に、国際剣道連盟が結成された事で、世界各地でも浸透しつつある。
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2008/2/7


茶室 Chashitsu 

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 茶室(ちゃしつ)の歴史は室町幕府の八代将軍・足利義政が、京都大徳寺の一休禅師の門下、村田珠光(むらたしゅこう)と能阿弥(のうあみ)とその子芸阿弥(げいあみ)孫の相阿弥(そうあみ)の四人とともにそれまでとは違う、茶会の作法を編み出した時にはじまる。四人は広い座敷の中に一丈(十尺四方)の屏風で囲み、茶の道具である台子を前に行う台子手前で茶礼を行った。これが茶室のはじまりである。
 村田珠光の時代は書院風茶室であったが、武野紹鴎(たけの じょうおう)の時代には四畳半の茶室がつくられた。その後、千利休の時代になると屋根の形は入母屋から切妻へと変わり、壁も土壁、格子も細竹の連子と草庵の茶室に変わっていき、さらに、三畳から一畳半の広さで行う侘茶の作法と変わっていった。
 その後江戸時代にかけて活躍した古田織部(ふるたおりべ)が床の間をもつ四畳半台目の席を考案し、徳川将軍家の茶道指南役であった小堀遠州が完成させた。
 茶室とは日本文化が作り出した美と意識の交差する空間である
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2008/1/8


天寧寺 三重塔 Tennaei-ji Sanjuu-no-tou 

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 尾道水道を見下ろす小高い山の斜面に、民家に囲まれて天寧寺(てんねいじ)がある。貞治六(1367)年に室町幕府第二代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)の寄進で建立し、歴代の足利氏の庇護を受け大伽藍を誇っていたが、その後、大部分が焼失してしまった。
 本堂の裏手には三重塔があり、坂というよりは石段に近い路地を登って行く。嘉慶二(1388)年の建立で高さ25m、本瓦葺。一般的な三重塔に比べると上から押し潰されたように見え、全体的に太く違和感を覚える。これは、もともと五重塔だったものを、江戸時代初期に傷みが激しかった四層と五層を撤去し、三重塔に改築したからである。初層内部に四天柱と来迎壁を持つ。正式名称は「海雲塔(かいうんとう)」。
 寺は牡丹の名所としても知られ、近くには千光寺山ロープウェイが通る。
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2007/5/1


金閣寺 Kinkaku-ji 

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 金閣寺。正式には「臨済宗相国寺派・北山鹿苑寺」(りんざいしゅうそうこくじは・ほくさんろくおんじ)。
 京都の北西、京都市北区に位置し、「金閣寺」の名はその金箔で飾られた煌びやかな姿から呼ばれた通称である。室町幕府の花の御所に隣接していた相国寺をはさんだ京都の東山にある銀閣寺も、同じ相国寺派である。
 創建は応永(おうえい)四(1397)年、、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺家の山荘を譲り受け「北山殿」と呼ぶ別邸に一新したのが始まりである。義満の死後、その法名にちなんで「鹿苑寺」と名づけられた。
 金閣といわれる三層からなる金色の建物は、舎利(しゃり)(お釈迦様の遺骨)を安置する舎利殿である。
 池に映る青い空、緑に輝く木々、春の桜に秋の紅葉。そして金色に輝く舎利殿。
 無色と静寂だけが禅ではないことを、語ろうとしているのか。室町の「禅」は一筋縄ではいかない。
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2006/12/20


銀閣寺 Ginkakuji Ginkakuji Temple

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 銀閣寺は、室町幕府8代将軍足利義政が、祖父義満の建てた金閣寺に倣って建てた別荘。義政の没後、臨済宗相国寺派の禅寺へと改められ、名称も義政の法号にちなんで「慈照寺」と名づけられた。
 文明14年(1482年)の造営時は、錦鏡池(きんちょうち)を中心に池泉回遊式庭園が広がり、その周囲には大小12棟の建造物が点在していたという。現在では、観音堂と東求堂(とうぐうどう)のみが現存。東求堂の同仁斎(どうじんさい)は、現存する最古の書院造だ。
 東山文化を代表する庭園も見事。門をくぐり美しく整えられた垣根の小道より白砂の庭へ足を運べば、独特の侘びと寂びの世界を目のあたりにすることができる。
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