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山形の松山城は、山形県酒田市新屋敷にあった城である。
松山城は出羽山地西麓の段丘上に位置する平城で、江戸後期に築城された城郭である。
正保四(1647)年、酒井家の三男忠恒が中山2万石を分地され、中山陣所を居館とした。
安永八(1779)年、三代・忠休の若年寄としての長年の功績が認められ、5千石の加増と築城の許可がなされ、天明元(1781)年、築城に着手し、7年後に松山城が完成した。
戊辰戦争では幕軍に付き、明治元(1867)年、降伏・開城した。以後、廃城となる。
現在は、松山歴史公園となっている。園内のあちこちに城の面影が残り、「多聞楼」とも呼ばれる大手門は県指定文化財である。
山形の松山城は、江戸の文化を偲ばせる、近世城郭である。
松山城は出羽山地西麓の段丘上に位置する平城で、江戸後期に築城された城郭である。
正保四(1647)年、酒井家の三男忠恒が中山2万石を分地され、中山陣所を居館とした。
安永八(1779)年、三代・忠休の若年寄としての長年の功績が認められ、5千石の加増と築城の許可がなされ、天明元(1781)年、築城に着手し、7年後に松山城が完成した。
戊辰戦争では幕軍に付き、明治元(1867)年、降伏・開城した。以後、廃城となる。
現在は、松山歴史公園となっている。園内のあちこちに城の面影が残り、「多聞楼」とも呼ばれる大手門は県指定文化財である。
山形の松山城は、江戸の文化を偲ばせる、近世城郭である。
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