NIPPON Kichi - 日本吉

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2007/12/25


湯島聖堂 Yushima-seidou 

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 湯島聖堂は元来、儒学の学校に付随して建てられていた、孔子を祀る孔子廟(こうしびょう)であった。
 江戸初期の儒学者・林羅山(はやしらざん)が、私邸であった現在の上野恩賜公園内にあった孔子廟「先聖殿」を移築し、それが後に綱吉によって「大成殿」と改称され、付随する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めたのが、湯島聖堂の由来である。この林家の私塾はやがて官立となり、昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)となった。
 明治時代に入り、学問所は大学校、大学と改称されながら残されていたが、明治四(1871)年に文部省が置かれることに伴って廃された。
 湯島聖堂は度重なる大火に見舞われ、再建も重ねてきた。大正一二(1923)年、国の史跡に指定された翌年に、関東大震災が起き、ほとんどを焼失してしまったという。昭和一〇(1935)年に現在の鉄筋コンクリート造りに再建された。
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2007/8/10


中江藤樹邸跡(至徳堂) Nakae-Touju-tei-ato(Shitoku-dou) 

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 近江出身の儒学者中江藤樹(とうじゅ)は後に「近江聖人」といわれるようになった江戸時代初期の陽明学者である。
 近江の農民中江吉次の長男として生まれた藤樹は、伯耆(ほうき)米子藩主加藤家の百五十石取りの武士である祖父・徳左衛門の養子となり米子に赴いた。その後藩主加藤貞泰の転封で祖父母とともに大州に移住。一五歳で家督相続し、独学で朱子学を学んだ。二七歳の時、脱藩し近江へ。以後門弟の教育に努め、四一歳で亡くなるまで知行合一(ちこうごういつ、陽明学の実践重視の教え)の実践を深めた。
 宇和島中学校大洲分校に学んだ窪田哲二郎氏からの寄付金を基金として、有馬純次校長の構想により、藤樹の遺徳を伝えまた学ぶ「学舎」として、百石取の武士の住居を模した「至徳堂」を建設。落成は昭和一四年一一月一八日。昭和二八年には愛媛県指定史跡に選定された。
 大洲城三の丸の跡に建てられた県立大洲高校の敷地内にある。
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2007/4/24


頼山陽居室 RaiSanyoukyo-shitsu 

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 頼山陽居室は、広島県広島市中区袋町にある頼山陽史跡資料館内にある部屋である。国の史跡に指定されている。
 頼山陽は、この居室で名著「日本外史」を草したといわれる、幕末維新に大きな思想的影響を与えた儒学者、文人である。
 山陽は、安永九(1780)年に朱子学者頼春水の子として生まれた。幼くして漢学を修め、天下を憂いて脱藩の重罪を犯して出奔したが、すぐに連れ戻されて邸内の一室に幽閉された。
 居室は、1度は原爆で焼失したが、昭和三三(1958)年に復元・再建された。
 現在は、頼山陽が青少年時代を過ごした屋敷跡に建つ頼山陽史跡資料館内に存在し、山陽の足跡を知る資料や広島近世文化資料をと共に保存、展示されている。
 頼山陽居室は、幕末維新を偲ばれる史跡である。
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2007/4/23


頼惟清旧宅 Raikoresugakyutaku 

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 頼惟清(らいこれすが)旧宅は、江戸後期の儒学者であり詩人としても活躍した文人・頼山陽(らいさんよう)の祖父、頼惟清の旧宅。広島県竹原市に所在する。
 惟清は、染め物屋を営み、惟清の子で「三頼」と呼ばれる俊才たち、春水(しゅんすい)、春風(しゅんぷう)、杏坪(きょうへい)の3兄弟もこの家で生まれ育った。春水は頼山陽の父、春風は後に医者・学者に、杏坪は広島藩の儒者になるなど、3兄弟とも史上に名を残す文人となっている。
 当時竹原の地は、学問・文明が盛んであった。惟清も家業のかたわら、近所の学者や歌人に手ほどきを受けるなど、有力町人の文化活動に積極的に参加、家庭内に学問的雰囲気を作っていたとか。
 建物は安永四(1775)年ごろの建築。本瓦葺き、重層屋根、入母屋造、塗り籠の壁が当時の姿そのままの質実な佇まいを見せている。
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2007/4/10


安井息軒旧宅 Yasui-Sokken-Kyuutaku Sokken Yasui’s Residence

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 安井息軒旧宅(やすいそっけんきゅうたく)は、宮崎県宮崎郡清武町にある、学者・安井息軒が住んでいた武家屋敷である。国の文化財に指定されている。
 安井息軒は、寛政一一(1799)年、清武町に生まれた。
 幼い頃から学問に励み、その業績は江戸期儒学の集大成と評価され、近代漢学の礎を築いた。
 「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり」という考えのもと、多くの人材を育て、門下からは谷干城や陸奥宗光など延べ200名に上る逸材が輩出された。
 旧宅の庭の隅には、徳川家達によって書かれた記念碑がある。また、庭内には安井息軒が自ら植えたとされる梅の木も残っている。
 安井息軒旧宅は、幕末に大きな思想的影響を与えた息軒の、息吹を感じられる家屋である。
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2007/2/5


金鱗湖 Kinrin-ko Kinrin Lake

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 湯布院の観光名所の一つ、金鱗湖は、昔は由布岳の下にある池という意味で「岳下の池」と呼ばれていた。明治17年、鶴崎の儒学者 毛利空桑が「下ん湯」(金鱗湖を眺めながら浸かれる露天風呂)の中から湖面を眺めていると、飛び跳ねた魚の鱗(うろこ)が夕陽に照らされて、金色に輝く様を見た事から「金鱗湖」と名付けた。
 この湖は、西側に温泉が湧き、東側には冷泉が湧いているので、冬でも水温が高く、霧が発生するのはこの為。魚達が気持ち良さそうに泳いでいるのを見ると、ついつい目で追いかけてしまう。
 風景は、見る場所によってその表情が変わるので、時間をかけてゆっくりと周り、散歩を楽しむことができる。
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