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湯島聖堂は元来、儒学の学校に付随して建てられていた、孔子を祀る孔子廟(こうしびょう)であった。
江戸初期の儒学者・林羅山(はやしらざん)が、私邸であった現在の上野恩賜公園内にあった孔子廟「先聖殿」を移築し、それが後に綱吉によって「大成殿」と改称され、付随する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めたのが、湯島聖堂の由来である。この林家の私塾はやがて官立となり、昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)となった。
明治時代に入り、学問所は大学校、大学と改称されながら残されていたが、明治四(1871)年に文部省が置かれることに伴って廃された。
湯島聖堂は度重なる大火に見舞われ、再建も重ねてきた。大正一二(1923)年、国の史跡に指定された翌年に、関東大震災が起き、ほとんどを焼失してしまったという。昭和一〇(1935)年に現在の鉄筋コンクリート造りに再建された。
江戸初期の儒学者・林羅山(はやしらざん)が、私邸であった現在の上野恩賜公園内にあった孔子廟「先聖殿」を移築し、それが後に綱吉によって「大成殿」と改称され、付随する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めたのが、湯島聖堂の由来である。この林家の私塾はやがて官立となり、昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)となった。
明治時代に入り、学問所は大学校、大学と改称されながら残されていたが、明治四(1871)年に文部省が置かれることに伴って廃された。
湯島聖堂は度重なる大火に見舞われ、再建も重ねてきた。大正一二(1923)年、国の史跡に指定された翌年に、関東大震災が起き、ほとんどを焼失してしまったという。昭和一〇(1935)年に現在の鉄筋コンクリート造りに再建された。
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