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2008/10/3


飫肥 武家屋敷通り Obi bukeyashiki-tori 

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 宮崎県日南市飫肥(おび)にある石垣や歴史的建造物がならぶ武家屋敷通り。城下町であった飫肥は伊東藩5万1千石を有する土地である。武家屋敷通りは国の重要伝統的建造物群保存地域に指定されている。
 飫肥城の大手門を出て左手に向かうと、道路こそは舗装されているが、約200メートルほど続く道の両側に、武家屋敷の面影を残す建物や石垣、瓦塀が並ぶ。当時の武家屋敷の特徴は間口が広いことであり、一軒の塀が長く続く。
 その中には明治の外務官僚を務めた小林寿太郎生家、飫肥藩を収めた旧伊東伝衛門家(19世紀初めの建築)や旧藩校である振徳堂がある。それぞれが1戸平均900坪の広い敷地を持つ。
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2008/7/24


城下町 Jouka-machi Jouka-machi (Castle Town)

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 城下町(じょうかまち)とは、主に領主の居城を中心として成立した都市のことである。
 その成立は戦国時代とされ、織田信長による兵農分離で、武士を城下に住まわせると共に市場を設けて商工業を行なわせたことによるとされる。
 城下町としての基本構造は、城の付近を通る幹線道路を付け替えて、往来が城下を通るようにさせたもので、これにより商工業が活性化し、発展を促して城下に広く人々が集い、町が形成されていくこととなる。
 都市防衛についても様々な工夫が施されている場合が多く、川の有効利用や門の設置、道路わきの家屋を隙間なく建てて城を見えなくするなど、都市そのものが巨大な防衛能力を持つものもあった。
 居住地の区画割りも城を中心に近いほど身分の高い侍が住み、一般市民や寺社などは城から離れるにしたがって割り当てられた。
 現在においても城下町の風情を残す街は少なからずあり、それ以外でも番町や大手町、呉服町などの町名に往時を偲ぶことができるだろう。
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2008/2/28


城下町 大聖寺 Joukamachi Daisho-ji Castle town,Daishoji

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 石川県加賀市の大聖寺(だいしょうじ)は、加賀百万石の支藩、大聖寺藩の城下町として栄えてきた歴史と伝統文化の息づく町だ。
 江戸時代からの街並みをそのままとどめ、しっとりと落ち着いた雰囲気を漂わせている。錦城山城址のふもとには禅宗、日蓮宗などの古刹が立ち並び、年間を通して史跡めぐりを楽しむ人々が絶えない。
 特に実性院(じっしょういん)は、5月に咲く藤の花の全国的な名所としても知られている。金箔をあしらった障子画も見事だ。また、大聖寺3代藩主の藩邸跡の一部に当たる江沼神社境内にある「長流亭」は、兼六園を模して作庭されたとされ、書院や茶室など、隅々にまで凝らされた意匠が興味深い。この庭園は、国の重要文化財に指定されているという。 
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2007/11/27


柳川まり Yanagawa-mari Yanagawa Handballs

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 柳川まりは、福岡県柳川市にて造られている伝統的な鞠である。福岡県指定特産民芸品とされる。
 柳川地方のひな壇には、初節句に女子に贈られた「さげもん」と呼ばれる独特の風習がある。
 縁起のよい鶴などの手作りの縫いぐるみと、鮮やかな七色の糸で巻いた大まりを下げ輪の中央に、小まりと縫いぐるみを交互に下げ輪に吊り下げたものの事である。
 この「さげもん」に使われる鞠こそが、柳川まりである。
 丸くした木綿の上に綿をかぶせ、しつけ糸で形を整え、その上の草木染めした木綿糸や現代的色調のリリアンを巻いて作りあげる。
 旧柳川藩主の立花邸の腰元たちが作っていたのが町家に広まったと言われている。
 柳川まりは、城下町としての手まり文化を今に残す、貴重な伝統民芸品である。
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2007/10/3


亀山宿 Kameyama-juku Kameyama-juku

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 亀山宿(かめやまじゅく)は、三重県亀山市の東部にある、東海道四六番目の宿場町。
 宿場町であるが、城下町としても栄えた。多くの史跡が存在し、亀山城跡や石井兄弟敵討跡、江戸口門跡、京口門跡等が今もその姿を残している。
 安藤広重が描いた「東海道五十三次之内亀山」では、副題を雪晴とし、雪という気候の変化をテーマとしている。深い雪と斜面に生える木を描いているが、淡墨で描かれた真白い雪に美しさを感じる反面、当時の旅の困難さもうかがえる。
 現在、周辺には城の一部が移築再建された寺や、屋敷、直角に曲がった細い路地などが残り、城下の名残を残している。
 
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2007/9/14


高鍋城灯籠まつり Takanabe-jo-tourou-matsuri Takanabe Castle Lantern Festival

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 高鍋城灯籠(たかなべじょうとうろう)まつりは宮崎県児湯郡高鍋町で行われる、町をあげてのまつりである。
 三代藩主・秋月種信(あきづきたねのぶ)が開いた藩校「明倫堂」の教えである「人の道を広く育む」をテーマとし、毎年一〇月一五日をメインに舞鶴公園とその周辺で開催される。
 町中では、会場を中心にいたるところで石灯籠や竹灯籠などが設けられ、一五〇〇基あまりの灯篭に明かりがいっせいに灯され、城下町を幻想的に彩る。中には小中学生が描いた絵を紙灯篭にするなど、ユニークなものも見られ、町と住民が一体になったまつりである。
 同時に高鍋城のお堀周辺では、毎年、ジャズなど多彩な企画による「堀床の宴」と称されるイベントが開かれる。
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2007/9/13


見龍寺 Kenryuu-ji Kenryuji Temple

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 涌谷町にある見龍寺(けんりゅうじ)は、涌谷伊達家の城下町で知られる。本尊である如意輪観世音は、安慶によって造られたものといわれる。
 天正一九(1591)年、亘理重宗(わたりしげむね)が涌谷領主になった時、京都にある妙心寺の梁岩を招き、中興開山して円同寺と名づけた。寛文一一(1671)年、伊達安芸宗重の死去に伴い、法号に因んで寺号を見龍寺と改めた。
 見龍寺境内には涌谷伊達家四代宗重の霊屋(みたまや)である見龍廟がある。
 白壁の塀に囲まれており、建物は総欅素木造で向拝が付き、屋根は宝形造の銅板葺である。寛文一三(1673)年に建てられ、県の重要文化財に指定されている。
 堂の周囲には五・六代の霊屋のほか累代の涌谷伊達家の巨大な墓石などが立ちならんでいる。

 
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2007/9/6


盛岡秋まつり Morioka-aki-matsuri Morioka Autumn Festival

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 盛岡秋まつりは、岩手県盛岡市にある盛岡八幡宮で、毎年の九月十四日からの三日間に渡って行われる同宮の例大祭である。十三日には前夜祭も行われている。
 祭りが行われる盛岡八幡宮は、この地を治めた南部家が城下町鎮護のために勧請した、同家の氏神様でもある。
 祭りの興りは宝永六(1709)年、南部藩二十万石の城下町二十三町が完成した折に、各町から一台ずつ山車を出して祝ったのが始まりとされており、この山車行列は今も執り行われ、盛岡市の指定無形文化財にもなっている。
 それら山車の全てが八幡宮からスタートする「八幡下り」や夜に行われる山車大絵巻パレード、八幡宮境内で行われる古式ゆかしい流鏑馬など、三百年間連綿と続く盛岡の秋の風物詩が、三日間にわたって繰り広げられる。
 祭りには欠かせない屋台も参道一杯に立ち並んでおり、南部独特の音頭を取って子供達が練り歩く様をヤキソバを食べながら眺めるのも乙なものである。
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