NIPPON Kichi - 日本吉

記事数28件: 1~8 件表示     >>     >|  

2008/9/25


滝口寺 Takiguchi-dera 

Jp

 京都市嵯峨小倉山の麓にある滝口寺(たきぐちでら)は浄土宗の開祖法然(ほうねん)の弟子、念仏房良鎮(ねんぶつぼうりょうちん)によって創建された。正式名称は往生院三宝寺という。
 平家物語「維盛高野」の巻で語られている、平重盛の重臣で後に滝口入道と呼ばれた、斉藤滝口時頼と侍女横笛の悲恋が伝わる寺として知られている。入道は横笛との恋を父に厳しく叱責され、この寺で修行を始めた。横笛は出家した入道に会いに尋ねるが追い返され、傍にあった石に指を切った血で和歌をしたためたという。身分の違いから生まれた、悲恋の物語が伝わる滝口寺の名は物語に由来する。
 市内の社寺の多くは応仁の乱などの戦火を受け焼失したが、三宝寺は免れている。その後一度は明治維新で廃寺となったが、隣接する祇王寺の再建に続いて再建された。
 平家物語ゆかりの寺は、竹林に囲まれた小さな寺だが、奥嵯峨の情緒あふれる寺である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/9/12


直指庵 Jikishian 

Jp

 孟宗竹が連なる中にひっそりと佇む「直指庵(じきしあん)」は、浄土宗の寺である。
 正保三(1646)年、臨済宗を学んだ独照禅師(どくしょうぜんじ)が、隠元禅師(いんげんぜんじ)の教えを受け、「直指人心」という禅の考えを守り、寺号を定めず「直指庵」と称し、創建した。
 「直指人心」とは、自分の奥底に秘めている心をしっかりと見つめ、本当の自分、すなわち仏心、仏性をまっすぐ率直に、そしてしっかり把握する心のことをいう。
 その後次第に荒廃していったが、幕末になり、近衛家(このえけ)の老女であった津崎村岡局が浄土宗の寺として再興し、尼寺として長い間使われていた。そのためか、悩める女性たちの駆け込み寺として知られ、この寺には「想い出草」と名づけられたノートが備えられており、参詣者の思いが綴れるようになっている。
 現在の建物は、明治三二(1899)年、北嵯峨の有志によって再建された。
 竹林に囲まれた敷地内に彩る秋の紅葉は、静寂さの中だけあって、さらに心落ち着くひとときである。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/8/29


当麻寺 西塔 Taima-dera Sai-tou 

Jp

 当麻寺(たいまでら)は、奈良県葛城市當麻にある高野山真言宗と浄土宗の並立する寺院で、本尊は弥勒仏、當麻曼荼羅。新西国三十三箇所霊場第11番、大和十三仏霊場第6番札所などとされる。推古天皇二〇(612)年、聖徳太子の異母弟・麻呂古王によって開基・創建されたと伝わる。
 西塔(さいとう)は、東塔にやや遅れて奈良時代最末期から平安時代初頭の建築と推定される。塔は高さ24.81mで本瓦葺の三重塔で、基壇の上に建ち、中央間は広い板唐戸、脇間白壁、組物は三手先、中備えは三間とも間斗束で、国宝に指定されている。
 東西の塔にデザインや建築時期の違いは若干あるものの、近世以前の東西両塔が現存する日本唯一の例として、きわめて貴重なものとされている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/7/23


金戒光明寺 Konkai-koumyou-ji 

Jp

 黒谷(くろたに)さんの名で親しまれている、京都左京区黒谷にある金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、浄土宗の開祖法然が比叡山の黒谷を下り、師・叡空(えいくう)より譲り受け、草庵を結んだ地である。承安五(1175)年、法然四三歳のころである。
 念仏によって人々が等しく救われるという浄土宗を開いた法然は、この地に念仏道場を開いて念仏の輪を広めた。これが浄土宗の寺院のはじまりである。
 法然の死後、法蓮房信空(ほうれんぼうしんくう)と弟子達に引き継がれ、伽藍を整えられながら大寺院となった。
 建物は応仁の乱の戦火などで焼失したため、創建当時のものは残されていない。一番古いものは阿弥陀堂で、慶長一〇(1605)年に豊臣秀頼によって再建したものと伝えられている。
 幕末には京都守護職を勤めた会津藩が、ここに新撰組を預かったことでも知られている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/5/26


三鷹市 禅林寺 Mitaka-shi Zenrin-ji 

Jp

 東京都三鷹市下連雀にある禅林寺(ぜんりんじ)は禅宗のひとつである黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院である。
 江戸時代初期に起きた明暦の大火は、江戸の大半を焼失するほどの大火災で、住処を失った人々は各地に移住させられたという。この時、神田連雀町より当地に開拓農民として移り住んだ人々が、浄土宗の寺院として創建したのが禅林寺のはじまりといわれている。苦労した当時の町民達の心の支えとして、崇敬されたという。
 元禄一三(1700)年の台風で倒壊したこの寺を、黄檗宗の僧・百拙元養(ひゃくせつげんよう)が再興し、名前を禅林寺と改めた。
 境内には森鴎外や太宰治の墓があることでも知られている。太宰治の命日に当たる六月一九日には、亡くなる直前の作品「桜桃」の名にちなんだ桜桃忌(おうとうき)と呼ばれる太宰を偲ぶ会が寺で行われ、多くのファンが訪れるという。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2008/4/11


法然 Hounen 

Jp

 法然(ほうねん)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶。浄土宗の開祖。
 長承二(1133)年、美作国久米(現・岡山県)に誕生。
 9歳の頃、押領使だった父が殺され、住職だった叔父・観覚のもとに身を寄せ、仏教を体得。6年後、単身比叡山へ。源光・皇円・叡空などの師匠に才能を絶賛される。黒谷青竜寺への隠遁を許され、修行を積む。
 43歳の頃、唐の善導大師の『観経疏』によって、「阿弥陀如来の誓い=本願念仏」を辿り着き、承安五(1175)年に、当時としては革新的で独自性に満ちた教説を持つ、浄土宗を開いた。
 碩学の僧、聴衆300人を集め、浄土法門を論じ合った「大原問答」が有名。65歳で著した『選択本願念仏集』は、現在でも経典と同様の扱いで読み継がれている。
 晩年は、激しい弾圧、流罪などに見舞われた。80歳で往生。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/11/12


浄厳院 Jougon-in Jogonin Temple

Jp En

 天正六(1578)年、織田信長は安土城の築城に伴い、近江の守護佐々木氏の菩提所であった慈恩寺跡地に新しく寺院を建立する。
 その際、人徳を慕っていた浄厳坊(じょうごんぼう)に住む応誉明感(おうよめいかん)上人をこの地に招き、浄厳院(じょうごんいん)とした。
 天正七(1579)年五月、この寺は浄土宗と日蓮宗の教義上の論争である、安土宗論(あづちしゅうろん)の舞台となる。両者間の論争のはずが、信長の政治的意図も絡み、法華宗は敗北し以後勢力を失った。
 浄土宗が勝利を得て唱えた「かちどき念仏」は、現在もこの院で毎年一一月に奉納されている。
 重厚な本堂は近江八幡市の興隆寺から移築し、入母屋造の楼門は旧慈恩寺の楼門を使用している。
 これら二点の建造物と、木造阿弥陀如来坐像、厨子入舎利塔(ずしいりしゃりとう)、厨子入銀造阿弥陀如来立像、絹本著色山王権現像(けんぽんちゃくしょくさんのうごんげんぞう)、絹本著色阿弥陀聖衆来迎図など七点が国指定重要文化財となっている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/11/1


応声教院 山門 Ousyou-kyouin sanmon Sanmon Gate at Oshokyoin Temple

Jp En

 応声教院(おうしょうきょういん)は、静岡県菊川市中内田にある浄土宗の寺である。本尊は、準国宝の阿弥陀如来像とされる。
 斉衡二(855)年、茲覚大師により、文徳天皇勅願所の天台宗天岳院として創建された。
 後に、浄土宗を改宗した法然上人が、桜ケ池の竜神になったといわれる恩師皇円阿闍利を偲んで阿弥陀如来像を安置し、天台宗を浄土宗に改宗し、天岳院を応声教院に改名したと伝えられる。
 また、京都知恩院末、遠江十二支辰巳霊場としても知られ、阿闍利伝説の縁起書や歯吹阿弥陀如来座像などを所有している。
 石坂を登ると徳川2代将軍秀忠が建立した山門があり、のんべえ地蔵をはじめとした様々な地蔵や、遠州七不思議の一つ、片葉のアシや三度栗が植えられている。
 応声教院は、様々な伝説に彩られた古刹である。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



記事数28件: 1~8 件表示     >>     >|  
NIPPON Kichi - 日本吉 - 日本語に切り替える NIPPON Kichi - 日本吉 - to english

モノ・コト・ミル・ヒトで綴る
日本の美意識。

現在の記事 5444
カテゴリーズ
都道府県
キーワードシャッフル
お気に入り
キーワード検索
閲覧履歴



Linkclub NewsLetter