NIPPON Kichi - 日本吉

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2008/10/22


室町彫刻 muromachi-choukoku 

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 室町彫刻とは、室町時代(1392~1573)に彫られた、主に仏像・肖像彫刻のことである。
 南北朝・室町を通じて木彫が主流で、偶像を必要としない禅宗が盛んになった事もあり、仏像製作において著しい発達を見た鎌倉時代に比べ、多くの仏師たちは職業仏師に徹し、従来の形式を追うのみで新しい様式を生み出すことがなかったとされる。
 しかし禅宗寺院では仏像はなくとも祖師や開山の像がまつられており、これら肖像彫刻は、個性的な写実表現と禅宗的人格表現を基調とした新しい感覚のものであった。
 また実際には、戦火に見舞われながら仏像が造られ続ける中で、合理性が追求された箱型寄木造りが採用されたり、接着用の膠(にかわ)が多用されたりするなど技法上の改革もあった。
 一方、観阿弥、世阿弥によって大成された能から、仮面彫刻としての能面が生まれている。
 室町彫刻は、仏像彫刻に代わり肖像彫刻が主流となっていった時代の彫刻である。
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2008/9/26


真如堂 Shinnyo-dou 

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 比叡山延暦寺を本山とする天台宗の寺真如堂(しんにょうどう)。正式名称は「鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざんしんしょうごくらくじ)」である。
 比叡山の僧、戒算上人が夢に現れた阿弥陀如来より「神楽岡に真正極楽の霊地がある」というお告げを受けた。戒算は比叡山常行堂の阿弥陀如来像を、神楽岡の東に位置する、藤原道長の姉、東三条院・藤原詮子の離宮に移し、安置したのが真如堂のはじまりといわれている。永観二(984)年のことだったという。
 応仁の乱の戦火を受け、諸堂は全焼してしまったが、江戸時代に入り、現在の地に美しく重量感のある本堂や三重塔などが再建された。
 自然に囲まれた真如堂は、見所も多く、四季折々の異なる表情も楽しむことができる。紅葉の名所としても名高い。
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二尊院 Nison-in 

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 京都市嵯峨野にある二尊院(にそんいん)は嵯峨天皇によって建立された天台宗の寺院である。正式名称は「小倉山尊教院華台寺(おぐらやまそんきょういんけだいじ)」で、開祖は慈覚大師(じかくだいし)とも呼ばれる日本で最初の大師円仁(えんにん)である。創建時期は承和年間(834~847年)とされている。
 現世から来世へと送り出す「発遣(ほっけん)の釈迦」と、西方極楽浄土へ迎え入れる「来迎の阿弥陀」の表裏一体ともいえる二如来像を本尊とすることから二尊院と名付けられた。
 応仁の乱の戦火を受け、建物はほぼ全焼してしまったが、その後本堂と勅使門など、一部の建物が再建されている。
 伏見桃山城の薬医門(やくいもん)を移した大きな総門から延びる広い参道は「紅葉の馬場」と呼ばれ、紅葉の名所として名高い。
 また、ここは藤原定家が百人一首を選定した場所としても名高く、山の中腹に「時雨亭跡」として石組みが残されている。
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2008/9/25


滝口寺 Takiguchi-dera 

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 京都市嵯峨小倉山の麓にある滝口寺(たきぐちでら)は浄土宗の開祖法然(ほうねん)の弟子、念仏房良鎮(ねんぶつぼうりょうちん)によって創建された。正式名称は往生院三宝寺という。
 平家物語「維盛高野」の巻で語られている、平重盛の重臣で後に滝口入道と呼ばれた、斉藤滝口時頼と侍女横笛の悲恋が伝わる寺として知られている。入道は横笛との恋を父に厳しく叱責され、この寺で修行を始めた。横笛は出家した入道に会いに尋ねるが追い返され、傍にあった石に指を切った血で和歌をしたためたという。身分の違いから生まれた、悲恋の物語が伝わる滝口寺の名は物語に由来する。
 市内の社寺の多くは応仁の乱などの戦火を受け焼失したが、三宝寺は免れている。その後一度は明治維新で廃寺となったが、隣接する祇王寺の再建に続いて再建された。
 平家物語ゆかりの寺は、竹林に囲まれた小さな寺だが、奥嵯峨の情緒あふれる寺である。
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2008/9/12


相国寺 Shoukoku-ji 

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 相国寺(しょうこくじ)は、金閣寺や銀閣寺をはじめとして、約一〇〇の末寺を擁する臨済宗相国寺派の大本山である。
 室町幕府三代将軍の足利義満が、後小松天皇の勅命をうけて、明徳三(1392)年に完成した広大な寺院で、夢窓疎石(むそうそせき)を開祖として建立された。約一〇年をかけて建立されたが、応仁の乱の戦火により焼失してしまう。度重なる災難にも関わらず、幾度も再建され多くの高僧を輩出した。
 わが国最古の法堂は、入母屋造りの唐様建築で、本尊の釈迦如来は運慶の作といわれている。仏殿や金堂は存在せず、この法堂が仏殿を兼ねている。
 天井に描かれた「蟠龍図」は狩野永徳(かのうえいとく)の嫡男である狩野光信(かのうみつのぶ)の作である。見る角度により、龍の顔や眼が動くように見えるのが特徴で、この絵の下で手をたたくと、堂内にその音が響き渡り、その音がまるで龍が泣いているかのような声に聞こえたことから、通称「泣き龍」とも呼ばれている。
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2008/7/24


西宮神社 Nishinomiya-jinja Nishinomiya Shrine

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 西宮神社(にしのみやじんじゃ)は銘酒灘五郷の一つである兵庫県西宮市の中央に鎮座する神社である。日本に3500社もあるえびす神社の総社であり、地元では西宮のえべっさんとして親しまれている。
 創建時期は定かではないが、古い文献によると承安二(1172)年にその名がうかがえる。室町時代に大流行した七福神信仰の中心として謡曲、狂言などを通じて全国にその御神徳が知れ渡っていった。大阪文楽や淡路の人形浄瑠璃は西宮神社のえびす舞がルーツといわれている。その後も、豊臣家、徳川家からも篤い寄進を受け、商業の発展とともに商売繁盛の神様として大きく躍進していった。
 太平洋戦争では戦火に見舞われたが、昭和三六年に見事に復元された。室町時代建立の大練塀と桃山建築様式の表大門は国の重要文化財に指定されている。
 新年の初め、一月九日から一一日の三日間は十日えびすとして100万人を越える人々が訪れ賑わいを見せる。
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2008/7/23


金戒光明寺 Konkai-koumyou-ji 

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 黒谷(くろたに)さんの名で親しまれている、京都左京区黒谷にある金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、浄土宗の開祖法然が比叡山の黒谷を下り、師・叡空(えいくう)より譲り受け、草庵を結んだ地である。承安五(1175)年、法然四三歳のころである。
 念仏によって人々が等しく救われるという浄土宗を開いた法然は、この地に念仏道場を開いて念仏の輪を広めた。これが浄土宗の寺院のはじまりである。
 法然の死後、法蓮房信空(ほうれんぼうしんくう)と弟子達に引き継がれ、伽藍を整えられながら大寺院となった。
 建物は応仁の乱の戦火などで焼失したため、創建当時のものは残されていない。一番古いものは阿弥陀堂で、慶長一〇(1605)年に豊臣秀頼によって再建したものと伝えられている。
 幕末には京都守護職を勤めた会津藩が、ここに新撰組を預かったことでも知られている。
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2008/6/16


ならまち Naramachi Nara-machi

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 奈良県奈良市の市街地南に位置し、古い町家や寺院が集まる元興寺の旧境内界隈を「ならまち」と呼ぶ。奈良で一番古い町として、伝統建築群地域に指定されている。
 江戸時代末期から明治のならまちの面影を伝える町並みは、第二次世界大戦の戦火を免れたもので、風情ある建物があちらこちらに残されている。
 旧市街は平城京の外京にあたり、平城京のまちの構造をもとに、中世に新たに発達したまちであった。都が長岡京に移った後、平城京は荒廃したが、寺院はそのまま残された。東大寺や興福寺の辺りには、寺の仕事にたずさわる人々が住みつき、やがて郷(ごう)と呼ばれるまちをつくりあげた。
 懐かしい生活用具などを展示してある「奈良町資料館」や、間口は狭く奥行きの深い、伝統的な町屋を再現した「奈良市ならまち格子の家」など、今も当時の面影を残している。
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