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2008/9/26


真如堂 Shinnyo-dou 

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 比叡山延暦寺を本山とする天台宗の寺真如堂(しんにょうどう)。正式名称は「鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざんしんしょうごくらくじ)」である。
 比叡山の僧、戒算上人が夢に現れた阿弥陀如来より「神楽岡に真正極楽の霊地がある」というお告げを受けた。戒算は比叡山常行堂の阿弥陀如来像を、神楽岡の東に位置する、藤原道長の姉、東三条院・藤原詮子の離宮に移し、安置したのが真如堂のはじまりといわれている。永観二(984)年のことだったという。
 応仁の乱の戦火を受け、諸堂は全焼してしまったが、江戸時代に入り、現在の地に美しく重量感のある本堂や三重塔などが再建された。
 自然に囲まれた真如堂は、見所も多く、四季折々の異なる表情も楽しむことができる。紅葉の名所としても名高い。
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2008/4/11


法然 Hounen 

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 法然(ほうねん)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶。浄土宗の開祖。
 長承二(1133)年、美作国久米(現・岡山県)に誕生。
 9歳の頃、押領使だった父が殺され、住職だった叔父・観覚のもとに身を寄せ、仏教を体得。6年後、単身比叡山へ。源光・皇円・叡空などの師匠に才能を絶賛される。黒谷青竜寺への隠遁を許され、修行を積む。
 43歳の頃、唐の善導大師の『観経疏』によって、「阿弥陀如来の誓い=本願念仏」を辿り着き、承安五(1175)年に、当時としては革新的で独自性に満ちた教説を持つ、浄土宗を開いた。
 碩学の僧、聴衆300人を集め、浄土法門を論じ合った「大原問答」が有名。65歳で著した『選択本願念仏集』は、現在でも経典と同様の扱いで読み継がれている。
 晩年は、激しい弾圧、流罪などに見舞われた。80歳で往生。
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天海 Tenkai 

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 天海(てんかい)は江戸時代初期、天台宗の僧。
 天文五(1536)年、会津(現・福島県)生まれ。11歳で出家し、18歳の頃に比叡山に入る。華厳、唯識、禅、儒学や易教、国学を修めた。
 慶長一三(1608)年頃に、徳川家康の知遇を得る。家康の参謀、朝廷との交渉役として活躍。仙波(埼玉県川越市)の北院(喜多院)や江戸崎(茨城県那珂町)の不動院の住職を兼任し、延暦寺や日光山の整備・再興にも従事した。
 仏法と王法の合一を説いた「山王一実神道」の奥義を、天海は家康に伝授する。家康の死後、東照大権現を贈号して、江戸から日光への遷葬を指揮した。遂に家康を日本の守護神に祀りあげた。
 その後も、東叡山・寛永寺の創建や都市計画を指導、江戸鎮護を構想し続けた。108歳で入滅。その5年後に、朝廷より慈眼大師号を追贈された。
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2008/2/6


妙法院 Myouhouin 

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 妙法院(みょうほういん)は、数々の著名な寺社が立ち並ぶ京都府東山区に位置する天台宗の古刹である。
 古くから皇族や貴族の子孫が住持を務める寺院を「門跡」といって別格の扱いとされるが、この妙法院も門跡の一つであり、青蓮院、三千院と並び「天台三門跡」と称されてきた名門である。
 その創建には諸説あり、元は比叡山上にあった小寺院であるといわれ、開祖を最澄とするものや、後白河上皇が落飾後の永暦元(1160)年ごろ、比叡山の僧、昌雲が里坊を開いたのを始まりとするものなどがある。
 平安時代末期には京都市内に移転、その後は幕末まで代々法親王が住持を勤めていた。
 当時は広大な敷地面積を誇り、通し矢で有名な三十三間堂は、今も妙法院の管理するところである。
 豊臣秀吉が築いたといわれ、国宝にもなっている庫裏(くり)や重要文化財である大書院、狩野派の筆による障壁画が残る大玄関など、桃山文化の美が封印された大伽藍を今に伝えている。
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2007/11/9


長福寿寺 Chouhukujyu-ji 

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 長福寿寺(ちょうふくじゅじ)は、千葉県長生郡長南町長南にある天台宗の寺である。本尊は阿弥陀如来。
 延暦一七(798)年、桓武天皇の勅願により、伝教大師・最澄によって創建された。
 正式名を、三途河頭極楽東門蓮華台上阿弥陀坊太平埜山本実成院長福寿寺と言い、日本一長い勅号とされている。
 関東における学問所として、房総内外の寺院子弟の教育にあたり、中世においては西の比叡山、東の三途台と称せられ、房総三国における大本山として末寺308ヶ寺を有した大寺である。
 現在は研修道場としても開放され、各種講演会が開催されている。境内には紅花が咲いており、所蔵の木造慈恵大師坐像は、県指定の有形文化財になっている。
 長福寿寺は、長い歴史を誇る関東随一の大古刹である。
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2007/11/7


道元 Dougen Dogen

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 道元(どうげん)は曹洞宗の開祖。道元禅師と呼ばれる。
 正治二(1200)年、京都生まれ。一三歳で比叡山に昇り、翌年に出家。天台教学や禅を学ぶ。
 「正法」を求め、中国へ渡る。宝慶元(1225)年、天童山で如浄禅師と出会い、法を相承。「只管打坐(しかんたざ)」というひたすら坐禅に打ち込む修行が特徴。
 帰国後、建仁寺に住み、直ちに『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』を著した。約八年間、宇治の興聖寺(こうしょうじ)で禅の布教に専念した。
 越前に移り、大仏寺(現・永平寺)を開き、弟子の育成に力を注いだ。優れた人材を輩出し、日本各地に曹洞禅(そうとうぜん)を広めた。
 代表的な著作『正法眼蔵』は、九〇余卷にも及び、悟りへ至る道が記された書として、語り継がれ、研究され続けている。
 建長五(1253)年、五四歳で死去。
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2007/10/31


青蓮院 Shouren-in 

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 青蓮院(しょうれんいん)は、比叡山延暦寺の三門跡の一つで天台宗の寺院で知られる。門跡寺院とは、皇族や摂関家など高貴な身分の子弟が入寺した、特定の寺院をさす。天台宗の三門跡寺院とは、青蓮院、三千院、妙法院のことである。
 寺の歴史は古く、比叡山につくられた僧侶の住坊が起源といわれ、そのひとつである「青蓮坊」が青蓮院の起源であるといわれている。当時は最澄、円仁はじめ高僧の住居であったという。
 青蓮院は別名「粟田御所(あわたごしょ)」とも呼ばれている。これは天明八(1788)年に京都で起こった天明の大火のとき、後桜町上皇(ごさくらまちじょうこう)の仮内裏になり、そのため江戸末期まで一般の立ち入りが禁じられていたことによる。
 門前にはクスノキの巨樹があり、樹齢は約八〇〇年といわれ、京都市の天然記念物に指定されている。
 また、室町時代に相阿弥(そうあみ)が作庭したと伝えられる龍心池を中心とした回遊式庭園も見物である。
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2007/10/23


廬山寺 Rozan-ji 

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 廬山寺(ろざんじ)は、京都市上京区寺町通広小路にある圓浄宗本山の寺院。本尊は平安時代作の阿弥陀如来。
 天慶元(938)年、比叡山天台一八世座主・元三大師良源によって、平安京の中心軸「朱雀大路」の延長線上に位置する船岡山の南に創建。寛元年間(1243~46)に僧・覚瑜が再興し、中国の廬山にならって廬山天台講寺と号した。応仁の乱で焼失。その後、信長の焼き討ちは免れたが、後に秀吉により現在地に移される。
 平安時代には、紫式部の曽祖父、権中納言藤原兼輔(堤中納言)の邸宅があった場所で、紫式部はこの地で育ち、ここで「源氏物語」「紫式部日記」などを執筆したと伝えられている。紫式部にちなんだ源氏の庭は砂の白と苔の緑が巧みに配され、そこに清楚な桔梗が色を添え、他に類を見ない気品のある見事な庭園となっている。
 また、京都北山に聖徳太子が建立した金山天王寺の本尊の如意輪観音菩薩と脇侍の毘沙門天像は、明治以降、この廬山寺に安置され洛陽三十三ヶ所観音霊場や京都七福神として信仰を集めている。
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