NIPPON Kichi - 日本吉

記事数8件: 1~8 件表示          

2007/10/12


沼田城跡 Numata-jyou-ato Numata Castle Ruins

Jp En

 群馬県沼田市に所在。戦国時代の天文元(1532)年、この地方の有力者、沼田十二代の万鬼斎顕泰(ばんきさいあきやす)が築城したと言われる。当時は倉内城と呼ばれた。
 関東へ至る要衝の地であることから、越後の上杉氏や小田原の北条氏、甲斐の武田氏などの戦国大名により目まぐるしい争奪戦が繰り広げられた。
 江戸時代に入ると真田氏の所領となり、慶長二(1597)年から数年かけて、真田信幸により五重の天守閣を建造、二の丸、三の丸などが整備され、近世城郭に改修されたという。
 関東では珍しく石垣が築かれていた沼田城。現在残っている遺構はあまりないが、わずかに残る石垣や堀が当時の面影をしのばせる。春には樹齢400年の古木「御殿桜」が咲き、沼田城の興亡の歴史を静かに語りかけてくるようだ。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/9/28


拝島 日吉神社 祭礼 Haijima Hiyoshi-jinja Sairei 

Jp

 拝島の日吉神社祭礼(ひよしじんじゃさいれい)は、東京都の拝島町にある日吉神社で毎年の九月第三土日に行われる例祭であり、土曜日が宵宮、日曜日が本宮という。
 明和年間(1751~1771)に関東一円で起こった農民一揆を鎮めるための「世直し祭り」がその起源といわれる。
 前夜祭である宵宮では、周辺各町の山車が町内を練り歩き、山車と山車が出会うと祭囃子の合戦が始まり、祭の雰囲気を一層高める。
 本宮では榊神輿(さかきみこし)が、同日午後から始まるご神幸の露払いとして、日曜の午前零時から出立、夜の町内を練り歩く。
 高さ5mにもなる榊神輿の枝葉には無数の紙垂(しで)が飾られ、その頂には心筒(しんとう)が結わえられる。明け方近くに神輿が神社に戻ると、若連と呼ばれる若者達が無病息災を招くという紙垂のついた枝や、頂上にある心筒の争奪戦を始める。
 「榊まつり」や「暁の祭り」とも呼ばれる勇壮な神事は、この地域の風物詩として、今も親しまれている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/7/17


黒石寺蘇民祭 Kokuseki-ji-somin-sai 

Jp

 黒石寺蘇民祭(こくせきじそみんさい)は、岡山・西大寺会陽、大阪・四天王寺のどやどやと併せ、日本三大奇祭の一つに挙げられており、千年以上の歴史を持つ祭である
 蘇民祭は旧正月7日の夜、水垢離をとった祈願者・厄年連が、黒石寺本堂、妙見堂を三巡して厄災消除・無病息災・家内安全・五穀豊穣を祈願する「裸参り」で幕開けとなる。次いで柴燈木(ひたき)と呼ばれる松の生木を井桁に組んで点火された炎の上に登り、火の粉を浴びて身を清める「柴燈木登り」の神事が繰り広げられ、「別当登り」、「鬼子登り」と続き、いよいよ夜明け近く、クライマックスの「蘇民袋争奪戦」へと移る。
 蘇民袋とは、「小間木」と呼ばれる六方型の木製の護符を入れた麻の袋で、集まった善男善女はこぼれ落ちる小間木を、裸の男たちはさらに境内の外になだれ出て麻の袋を肉弾戦を繰り広げて奪い合う。最後は、袋の首を持った者が取主(とりぬし)となって、争奪戦は終わるが、なだれ出た群衆が向かう方向などで、その年の豊作を占うという側面も併せ持つ。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/7/4


西大寺会陽 Saidai-ji-eyou 

Jp

 別名「はだかまつり」の西大寺会陽(せいだいじえよう)は、岩手県黒石寺の黒石裸祭、大阪市四天王寺のどやどやと併せ、日本三大奇祭として知られている。深夜の暗闇の中、寺の御福窓から投げ落とされる護符としての2本の宝木(しんぎ)を、数千人の裸の群衆が奪い合うという壮烈な祭りだ。
 元は限られた信徒に与えられていた護符が、ご利益があるとして希望者が増え、奪い合うようになったことが始まりとされる。
 毎年2月の第3土曜日の夜、西大寺に集まった男たちは垢離取場(こりとりば)で冷水を浴びて斉戒沐浴し、宝木投下に備える。
 一方宝木の争奪戦に参加できない女性たちは、男達の士気高揚と安全祈願のために会陽太鼓を打ち鳴らす。
 午前零時、福窓から2本の宝木が男たちの群れの中に投げられると、興奮は一気に頂点に達する。壮烈な争奪戦を縫って宝木を得た者は「福男」と呼ばれ、その年の幸福が約束されるといわれている。
 祭りの起源は、およそ1300年前にさかのぼると伝えられている。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/6/21


御油宿 Goyu-juku Goyu-juku

Jp En

 御油宿(ごゆじゅく)とは東海道五十三次、三五番目の宿場。現在の愛知県豊川市御油町である。
 東海道が制定されたのは、慶長六(1601)年であったが、この年に伝馬朱印状が発行されており、早い時期から宿場として成立していたことが確認されている。
 この伝馬朱印状では御油・赤坂で一宿と制定されていたためか、本陣の数も多く最多時で4件、少なかった頃でも2件存在していた。
 姫街道(本坂街道の俗称)の分岐点にもなっており、隣の赤坂宿ともに遊興の場としても大いに賑わった。
 また、安藤広重の絵には飯盛女が宿泊客の争奪を行っているように描かれているが、東海道の制定後、独立した赤坂宿との距離が約1・7kmと非常に近かったため、互いにすさまじい客引きをしたと伝えられている。
 現在「御油の松並木」として街道の松並木が御油宿と赤坂宿の間に残っており、当時の面影を残している。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/3/19


前橋城跡 Maebashi-jyou-ato Maebashi Castle Ruins

Jp En

 前橋城の前身は、厩橋(まやばし)城。箕輪城主、長野氏の一族である長野賢忠が戦国時代、天文三(1534)年に築いたとされる。
 前橋城は、戦国時代から江戸時代にかけて、北関東の要所として戦国群雄の争奪戦が繰り広げられた城である。天文二十(1551)年、上杉氏が北条氏に敗れたことにより、上州は北条氏の配下となり、厩橋城も北条氏のものとなる。
 その後永禄三(1560)年、権力奪回を窺っていた上杉謙信が厩橋城を攻め落とした。
 以降、甲斐の武田氏、織田信長、北条氏、平岩氏、酒井氏と、城主が目まぐるしく変わるこの厩橋城が「前橋城」と名を変えたのは、慶長六(1601)年、酒井重忠の代に城を大改修して近世城郭を築き上げたときのこと。酒井氏の代は9代、150年続いたが寛永二(1749)年に姫路へ転封、代わりに松平氏が17万石で入封、明治維新を迎えた。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/1/28


一戸城 Ichinohe-jou Ichinohe Castle

Jp En

 建長年間(1249〜56)、南部義実の築城。その子・行朝の代に一戸氏を名乗り、代々の居城となる。
 天正九(1581)年、一戸政連は九戸政実に暗殺され、一戸城は九戸氏の属城となり、以後、政実と南部信直の抗争の拠点として、両氏の間で激しい争奪戦が行われる。
 天正十九(1591)年、豊臣秀吉の討伐軍により落城。その後に廃城となった。
 馬淵川右岸の丘陵上に位置する平山城で、北から北館・八幡館・神明館・常念館の四郭からなり、北館が主郭と考えられている。一戸城の西側は20〜30mの段丘崖で、馬淵川を自然の濠とし、北・東・南側は空堀で区画されている。
 国道4号線(陸羽街道)沿いの一戸公園が城跡で、空堀の一部と主郭であった北館跡が残る。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



2007/1/25


備中松山城 Bicchu-matsuyama-jo Bicchu-matsuyama Castle

Jp En

 「備中松山城」は、市街地の北端にある臥牛山(がぎゅうざん)にそびえる山城で、現存する山城としては日本一高い所にある城(天守・標高430メートル)として有名だ。
 創建は鎌倉時代。有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭秋庭重信が大松山に城を築いたのを起源とし、天和三(1683)年に水谷勝宗によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になった。
 城のある臥牛山は山陰と山陽を結ぶ要衝の地にあったため、戦国時代は激しい争奪戦が行われ、城主交代が目まぐるしく繰り返されたという。
 備中松山城は日本三大山城のひとつに数えられ、山頂の城址に建物が残っているのは、三大山城の中では備中松山城だけであり、現存天守閣も残っている。白い漆喰塗りの壁と黒い腰板のコントラストが美しく、青い空によく映える。
[+ADDRESS] この記事をお気に入りに、追加します



記事数8件: 1~8 件表示          
NIPPON Kichi - 日本吉 - 日本語に切り替える NIPPON Kichi - 日本吉 - to english

モノ・コト・ミル・ヒトで綴る
日本の美意識。

現在の記事 5444
カテゴリーズ
都道府県
キーワードシャッフル
お気に入り
キーワード検索
閲覧履歴



Linkclub NewsLetter