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2008/9/10


京印章 Kyou-inshou 

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 京印章(きょういんしょう)は京都で作られる印章(判子)のことである。
 印章は、聖徳太子の飛鳥時代に中国から伝わったといわれ、大宝律令で国の制度に印章が取り入れられた。
 京都では平安時代になると天皇の印などが作られるようになり、時代とともに印章は天皇、公家、武士、豪商と使われるようになっていった。
 江戸時代に日本最初の印半師が京都三条に住んでいたといわれる。その後、京都では数多くの印半師が活躍し、京印章は芸術的にも優れた文化として現在に受け継がれている。
 京印象は中国の漢の時代の作風を引き、当初は、書体が中心であったが、平安時代後期には風雅を好む花印(かおう)も多様されるようになった。
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2008/8/22


斑鳩寺 三重塔 Ikaruga-dera Sanjuu-no-tou 

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 斑鳩寺(いかるがでら)は、兵庫県揖保郡太子町鵤にある天台宗の寺である。本尊は釈迦如来・薬師如来・如意輪観音。聖徳太子霊跡28番、新西国三十三箇所霊場第32番札所とされる。
 推古天皇一四(606)年、聖徳太子が当時住んでいた大和国斑鳩宮からこの地に来て伽藍を建設し、斑鳩莊と名付けたのが斑鳩寺の創始と言われている。
 三重塔は、室町末期に建造されたといわれるが、当初の塔は戦国時代に焼失し、後に領主・赤松政秀により永禄八(1565)年に再建された。国の重要文化財に指定されている。
 塔は、本瓦葺、高さ24.85mで、四方に石段があり、擬宝珠高欄を付した縁をめぐらす。中央間板唐戸で、脇間連子窓、中備えは三間とも、柱の肩に蓑を着せたような装飾を付けた蓑束(みのづか)となっている。
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2008/7/11


丙子椒林剣 Heishi-syourin-ken 

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 丙子椒林剣(へいししょうりんけん)は、大阪府大阪市天王寺区の四天王寺にある、長さ65.8cmの日本の直刀である。国宝に指定されている。
 四天王寺は、推古天皇元(593)年に聖徳太子により建立された寺院で、本尊は救世観世音菩薩(くせかんぜおんぼさつ)。
 丙子椒林剣は、聖徳太子の剣と伝わる、7世紀の飛鳥、白鳳時代作と伝えられる切刃造(きりはづくり)の刀である。鎌倉時代から記録があり、当時すでに剣の拵えが無かった事が判明している。
 名前は、太刀の内側である佩裏(はきうら)に、同銘の金象嵌が施されている所からこの呼称になった。言葉の意味は、江戸時代の新井白石によると丙子は干支の一つ、椒林は作者の名だとされるが、諸説あって解明されてはいない。
 地肌が梨の実の切断面のように潤って見える美しい梨子地肌風であり、この時期の上古刀としては現存する最高の出来とされる。
 丙子椒林剣は、七星剣(しちせいけん)と共に聖徳太子愛用と言われる、日本の刀剣である。
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2008/7/10


聖徳太子絵伝 Syoutokutaishi-eden 

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 聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん)は、東京都台東区上野公園の東京国立博物館が所蔵している大和絵である。国宝に指定されている。
 延久元(1069)年、現在の大阪である摂津国の絵師・秦致貞(はたのちてい)により描かれた。
 奈良時代に始まった太子への信仰をもとに、太子の事績を描いたもので、元々は法隆寺東院の絵殿を飾っていた障子絵だったが、江戸時代に屏風に改装され、近年、10面のパネル装にされた。
 現存する聖徳太子の絵伝の中では最も古いもので、平安時代の装束に身を包んだ聖徳太子や、厩の前で太子を生む間人皇后、崇峻天皇を弑逆する蘇我馬子(そがのうまこ)など、よく知られた歴史の場面が登場する。
 聖徳太子絵伝は、初期大和絵の代表作と言われる説話画である。
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2008/7/3


七星剣 Shichisei-ken Shichiseiken (Seven Star Sword)

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 七星剣(しちせいけん)は、大阪府大阪市天王寺区の四天王寺が所有している、長さ62.1cmの日本の直刀である。国宝に指定されている。
 四天王寺は、推古天皇元(593)年に聖徳太子により建立された寺院で、本尊は救世観世音菩薩(くせかんぜおんぼさつ)。
 同じく四天王寺所有の丙子椒林剣(へいししょうりんけん)と並び、聖徳太子愛用の剣と伝わる。
 名前の由来は、金象嵌(きんぞうがん)の七星文、つまり北斗七星が描かれていた事による。その他、表に金象眼五飛鳥雲、七星の両側にV字型の三星と横に並んだ三星に青竜と白虎が刻まれ、裏には雲紋と北斗七星・それに青竜と白虎が刻まれている。
 作風は丙子椒林剣にくらべ、スラグと呼ばれる金属の残留物が目立つものの、地金は小板目肌と呼ばれる細かく目の詰まったもので、匂口(においぐち)に大粒な粒子が厚くつき、これに小さな粒子がついた細直刃となっている。
 七星剣は、日本の古代より伝わる貴重な刀剣である。
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2008/3/18


匂い袋 Nioi-bukuro 

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 匂いに関する文化は世界中に存在し、古来より権力を制した者や身分の高き者は香りを非常に大切にしていたという。
 香りの文化を日本ではじめて取り入れたのは、聖徳太子であるといわれている。匂い袋に関しても奈良時代にはじまり、正倉院の宝物の中に、現在の匂い袋の原点である裛衣香(えびこう)が残されているという。
 匂い袋の中は常温で香りを発散する香原料を刻み、調合して和紙や袋に詰められているのが特徴である。袋を身につけたり、壁や柱につるしたり、禅僧の座傍などにも用いられてきた。また、香原料のうち白壇(びゃくだん)や龍脳(りゅうのう)、丁子(ちょうじ)は防虫効果もあるので、袈裟(けさ)や僧衣(そうい)にもつけられていたという。
 平安時代に入ると貴族たちは個々の香りを出す為に、色々な香原料を工夫したという。香りに関しては源氏物語の中にもしばしば登場する。その後、公家から武家へと香りの文化は受け継がれていったとされる。匂い袋は日本文化の一端を香りで感じるものである。
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2008/2/18


観音正寺 Kannon-shou-ji Kannonshoji Temple

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 西国三十三箇所は、近畿二府四県と岐阜県に点在する霊場であり、日本で最も歴史がある巡礼行といわれている。
 観音正寺(かんのんしょうじ)は、その第三十二番札所にあたる。
 琵琶湖の東岸、標高433メートルの繖山(きぬがさやま)の山頂付近に位置し、まるで現世と離れるかのように粛々と佇んでいる。
 社伝によると、聖徳太子が近江国に創建した寺院で、鎌倉・室町時代には、近江国守護職・佐々木六角氏の庇護を受け、三十三院の子院を擁し、絶大な勢力を誇ったとされている。
 その後、内戦や移築など時代に翻弄される憂き目も見たが、慶長二(1597)年に再び元の山上に戻った。
 以前のような、きらびやかな勢いはないが、現在も万事吉祥の縁結びの祈祷道場として篤く信仰されている。
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滋賀 願成寺 Shiga Ganjou-ji Ganjoji Temple

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 滋賀の願成寺(がんじょうじ)は、滋賀県蒲生郡蒲生町川合にある曹洞宗の寺である。本尊は聖観世音菩薩像。蒲生観音霊場第26番、釈迦三十二禅刹第9番、近江湖東名刹二十七ヶ所霊場第24番札所とされる。
 聖徳太子の発願によって仏法興隆、諸国安泰のため全国46ケ所に建立された願成就寺の1つであり、本尊は33年に1度の開扉とされる秘仏で、聖徳太子の母の面彰を写し刻まれたと言われている。
 もとは天台宗であったが、寛永二(1625)年、三栄本秀禅師によって中興され、曹洞宗に改宗した。
 昔この寺にいた美しい尼僧を慕い、姿を変えて毎日通った人魚のミイラと伝えられているものが観音堂に保存されている。また、本堂には中世の石造遺品が数多く残っている。
 滋賀の願成寺は、古式ゆかしい聖徳太子ゆかりの寺院である。
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