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2007/9/18


かせだうち Kasedauchi 

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 かせだうちは、鹿児島県川辺郡知覧町にて、毎年一月一四日に行われている行事である。
 近所の人たちが七福神などの神様の格好で新築の家を訪れ、一家の繁栄を祝いにやってくる。
 布袋や弁天に扮した神様は、祝儀袋に八兆円などと書いて差し出したり、目録に高級車一〇台、航空機一〇機、豪華客船一〇隻などと書き込んでみせる。
 迎える家の方も負けていない。焼酎の変わりに、みりんや酢、醤油を勧めたり、おたまじゃくしの吸い物や、鶏の頭の吸い物などを勧めたりする。
 家主たちは、このようなユーモラスな方法で神様の正体を暴こうとするのである。
 名称は「稼いだ家」にちなむともいうが、はっきりしていない。
 かせだうちは、主と神様の滑稽なやり取りが笑いを誘う、小正月の伝統行事である。
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2007/8/23


御殿万歳 Goten-manzai Goten Manzai

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 万歳のルーツである法華経(ほけきょう)万歳。そこから宗派に合わせて派生した四つの万歳。合わせていわゆる五万歳と呼ばれるものはそれぞれ作法に特徴がある。
 五万歳の一つ「地割万歳」は屋敷を建てる時に祝う万歳で時と場所を選ばない。この「地割万歳」を基に天保年間(1830~1844)に考え出されたのが「御殿万歳(ごてんまんざい)」と言われている。
 新春に鶴と亀が家を訪れ、柱一本一本に各地の神々を呼び込んで瓦を伏せ、最後に七福神が現れて新築を祝うという内容で、家つまり御殿が建つ様子から「御殿万歳」と呼ばれた。厳格な中にもめでたさと面白さが盛り込まれているため、華やかな舞台芸として、また軽妙な掛け合いで笑いを強調した祝福芸として、各地の万歳に取り入れられながら伝承されていった。
 平成七(1995)年に国の重要無形民俗文化財に指定された。
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2007/8/9


仙台すずめ踊り Sendai-suzume-odori Sendai Sparrow Dance Festival

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 仙台すずめ踊り(せんだいすずめおどり)は、宮城県仙台市宮城野区にて7月の終わりに行われている祭りである。
 慶長八(1603)年、仙台城新築移転儀式後の宴席で、泉州・堺出身の石工が、伊達政宗の御前で、即興で披露した踊りがはじまりと言われている。
 小気味良いテンポ、躍動感あふれる身振り、跳ね踊る姿が餌をついばむ雀の姿に似ている事や、伊達家の家紋「竹に雀」にちなみ、すずめ踊りと呼ばれる様になった。
 戦前までは石切町の石工の子孫によって伝承されてきたが、近年、市民の間に広がり、多くのグループが創られるようになってきた。
 現在は、扇子を体の前で大きく動かし、足を左右にぴょんぴょん跳る「はねっこ踊り」を基本とし、各グループそれぞれに工夫を凝らした振り付けを創作して技や美を競い合っている。
 仙台すずめ踊りは、夏の風物詩として親しまれている踊りである。
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2007/7/13


等じゅ院 Touju-in Tojuin Temple

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 等じゅ院(とうじゅいん)は、北海道様似郡様似町本町にある蝦夷三官寺の一つで、天台宗の寺である。本尊は、薬師如来三尊仏像。景勝様似八景に選ばれている。
 文化三(1806)年、蝦夷地入りした武士らを弔う寺院が必要となり、徳川幕府第十一代将軍・徳川家斉により建立された蝦夷三官寺の筆頭として、等じゅ院が完成した。
 文化八(1811)年、護摩堂が建立されたが、熊の被害や川の決壊などにより後に移転する。
 昭和四〇(1965)年、等じゅ院は新築され、護摩堂も復元された。
 平成一七(2005)年、等じゅ院に残される文化元(1804)年に書かれた「等じゅ院住職記」など、仏教、蝦夷地政策、アイヌの歴史において重要な資料などが国の重要文化財に指定される。
 等じゅ院は、北海道の歴史を伺える、貴重な寺院である。
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2007/6/19


正信寺 Shoushin-ji Shoshinji Temple

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 正信寺(しょうしんじ)は、北海道浦河郡浦河町にある浄土真宗大谷派の寺である。本尊は、阿弥陀如来像。
 安政五(1858)年、函館に役寺正信坊施設として創立されたのが、始まりとされる。
 明治一一(1878)年、最初の住職となる清水綱道が、日高国浦河郡への移転を願い出た。
 翌年、堂宇を建て、本尊である阿弥陀如来像を持って浦河村鱗別に移転し、本願寺末寺とした。
 昭和三四(1959)年、昭和二七年の十勝沖地震により破損した本堂その他を現在地に移転すると共に、新築した。
 正信寺は、浦河で一番開基が古いといわれる寺であり、今も地元の人々に篤く崇敬されている寺院である。
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2007/6/7


函館市旧イギリス領事館 Hakodate-shi-kyuu-igirisu-ryoujikan 

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 函館市旧イギリス領事館は、北海道の函館市にある洋館。白亜の壁と窓額縁がシックなビクトリア調の建物だ。
 函館では、初め称名寺を仮領事館としていたが、文久三(1863)年に元町のハリストス正教会の隣に領事館を新築し、数回にわたる焼失の後にこの地に再建した。現在の建物は、大正二(1913)年、イギリス政府工務省上海工事局の設計により竣工したものである。昭和九年まで領事館として実際に使用されていた。
 建物の内部では、函館港の開港当時の様子を映像やミニチュアモデルなどで展示。ビクトリア女王の肖像画や家具など、外国公館の雰囲気を再現している。館内には英国風ティールームもあり、薫り高い紅茶やスコーンなどで優雅なティータイムを楽しめる。
 昭和五四年には函館市の有形文化財として指定された。
 
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2007/6/5


札幌 手稲山 Sapporo Teine-yama Mt. Teine

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 札幌の手稲山(ていねやま)は、北海道札幌市西区~手稲区に跨る標高1023・7mの山である。
 手稲山は、アイヌ語で長い断崖という意味の「タンネウェンシリ」と言われていたが、和人は近くにあった「テイネイ」という、濡れている所を意味する名から手稲山と名付けた。
 明治以後、鉱山として開発され、最盛期には金・銀・銅・亜鉛・テルルなどの出鉱量は約6万トンにものぼり、東洋一の鉱山と称されたが、やがて縮小・閉鎖された。
 昭和三(1926)年、日本初のスキーヒュッテが建てられた。
 ヒュッテとはドイツ語で「山小屋」の意味で、北海道の山スキー発祥の地と言われる由縁となった。
 昭和五三(1978)年、老朽化のため閉鎖されたが、その後有志により復元新築されている。
 手稲山は、かつては鉱山として、今はスキーで有名な山である。
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2007/5/9


箕浦家武家門 Minourakebukemon The Buke-mon Gate of the Minoura Family

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 鳥取県は県道323号線を挟んで県庁と向かい合わせに、白壁造りの堂々とした武家門が建つ。「箕浦家武家門」である。
 もともとは江戸時代の旧藩士・箕浦家二千石の武家屋敷の表門で、鳥取城のお堀端の南隅にあったもの。昭和十1(1936)年に鳥取師範学校の増改築の際に、校門として現在の位置に移築された。
 その後、鳥取大学付属中学校の通用門として使われ、県立図書館の新築に伴い解体修理され、現在に至る。市内に現存する唯一の武家門として鳥取市の保護文化財に指定、保存の対象となっている。
 白いナマコ壁に黒い瓦葺のコントラストが美しい。威風堂々としたその姿は、江戸の侍の威厳をそのまま映したかのようである。
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